まず始めに申し上げておきたいのは、現在僕の手元にあるのは、平光君が書いた本「怪物ランドの生涯」と番組の台本約12本を編集者がまとめたテレビ本「ウソップランド」と番組オンエアチェックのVHSテープが2~3本、怪物ランドプロデュース公演「セクソフィー」「フェロモン」「ドミネーション」を僕が撮影したVHSテープ3本、これのみです。公演のチラシ、パンフ等は一切ありません。劇団時代の台本もなにも残っていない状態です。 従って、頭の中に残っているかすかな記憶をたよりに書いていくしかありません。公演タイトルなどはほとんど覚えていないので、当時の交友関係の覚え書きと思ってください。 まずは、古い順から劇団「色鉛筆」について。 (文中―の人は後々関係してくる人です。また、文中時々、敬称略。文責は全て石塚千明にあります。) そもそも僕と平光君との交友は、神奈川県立小田原高校時代に始まります。同級生ですが個人的なつきあいはクラブ活動を通して友人になりました。僕も平光君も小田原市内の別の中学校から、(平光君は中学3年の時、岐阜から小田原市立城山中学に転校、 僕は小田原市立橘中学校)昭和45年(’70年)に小田原高校に入学。 僕は高校2年の時、映画部(8ミリで幼稚な劇映画を作る映画製作部)の部長に。部室がすぐ隣だった演劇部に平光君がいました。 ちなみに演劇部の部長は、僕と幼稚園から高校までいっしょだった椎野保之君(のちに青学に進学)でした。この椎野君とのつきあいで演劇部の公演には、僕が音響や照明などの裏方を手伝い、それを通して平光君と出会ったのです。高校3年の時には、平光君主演で僕が脚本・監督した8ミリの劇映画「何故」(なにゆえ)を作っています。 (内容は恐ろしく幼稚なラブストーリーでしたが、一応、カラー・アフレコによるトーキー・40分ぐらいの作品です。) また同じ頃、平光君は演劇部の公演で安部公房・作「棒になった男」の主役を務め、演劇部の県大会でかなりいい所までいったと記憶してます。 郷田ほづみ君は、3年下なので小田校演劇部の後輩ではありますがおなじ学内で会ったことはありません。(平光君と郷田君の父親がおなじ会社に勤務、実家も近かったので後に劇団「魔天楼」に入団)当時の小田校演劇部には、1年先輩に井上加奈子さん(早稲田の小劇団「暫」、「つかこうへい事務所」を経て、現在?平田満さんの奥さん)、また、映画部や演劇部を出たり入ったりしていた1年後輩に後のテクノバンド「ヒカシュー」のリーダー、巻上公一君、同じく1年後輩に当時出来たての落語研究会・初代部長で後の「コント赤信号」の小宮君がいました。 さて、ここからが劇団「色鉛筆」の話なんですが、実はほとんど覚えていません。というのも、小田校卒業後、平光君は日大芸術学部演劇学科へ、僕は日大芸術学部映画学科に進学したのですが、僕が他の仲間たちと8ミリ自主製作映画作りに熱中していたため、2~3年の間平光君たちと交流がありませんでした。交友関係の記憶だけで劇団「色鉛筆」の歴史をたどってみます。 劇団結成の言い出しっぺは、確か多田誠君。多田君は、前出の椎野保之君と同じく橘中学校出身、小田校の隣の神奈川県立西湘高校卒業後、日大芸術学部演劇学科に入学。高校時代の演劇部同士の交流が縁で、平光君や椎野君、演劇学科の同級生をさそって劇団「色鉛筆」を結成したようです。(多分、昭和48年、’73年だと思います) 結成後、最初の年に既成の戯曲(多分、木下順二の「夕鶴」のたぐい)で、学外の小劇場で一公演を行ったのだと思います。それで、2年目の時、今度はオリジナル台本でミュージカルをやろうという事になって、高校時代の仲間や演劇学科の後輩たちに声をかけました。この時、多田君の誘いにのって参加したのが、演劇学科1年後輩の赤星昇一郎君、高野寛君、高校時代の同級生だった松本きょうじ君、杉政俊哉君さらに平光・多田の演劇学科同級生安西正弘君(現テアトル・エコー所属、声優としても活躍中)などでした。 かなり大人数が参加した劇団「色鉛筆」の第二回公演は(タイトルは失念しました)昭和49年(’74年)、小田原市民会館を2日間だけ借り切って行われたと思います。 平光君の役所は覚えていませんが、舞台に数台のオートバイを持ち込んだロックンロールミュージカル風のものだったと思います。(僕は頼まれて、本番の時だけ照明を手伝いました)結局、この公演を最後に、芝居の方向性の違いから劇団「色鉛筆」は解散、または活動休止になったようです。 こうして、多田誠君と別れた平光君が、前出の松本きょうじ君、安西正弘君などと結成したのが劇団「魔天楼」でした。結成は多分、昭和50年(’75年)。この年の記念すべき第一回公演は、当時まだ無名だったつかこうへい・作の「出発」。渋谷のいまはなき「天井桟敷」を3日間ほど借りての初舞台でした。(この時、僕は音響を担当しました) つかこうへいさんとの関係は、当時早稲田大学の劇団「暫」に入っていた前出の井上加奈子さんが取り持ってくれました。つかさんは、慶応大学の出身ですが、当時は劇団「暫」をベースにオリジナル戯曲と演出を手がけていました。確か、3~4作目の「熱海殺人事件」で岸田戯曲賞を受賞、当時の劇団員だった井上加奈子さん、平田満さん、三浦洋一さんなどを誘って「つかこうへい事務所」を結成。残された劇団「暫」は、古関さん(芸名・キタロウ)を中心に数本公演を行っていましたが、この時知り合った大竹まことさん、佐伯さんと共に後に「シティーボーイズ」を結成しています。 閑話休題。 第一回公演「出発」では平光君は長男役、お父さん役は安西正弘君だったと思います。演出の名前は「車 忠則」(くるま・ただのり)とクレジットされています。これは、当時の演出が、松本きょうじ君を中心にほとんど役者全員で演出していたため、その合体名として使っていたようです。また、平光君は劇団「魔天楼」の発起人ではありますが、この後のつかこうへい原作の公演にはほとんど参加していなかったようです。多分、その頃、新劇の大手劇団「雲」の研究生として入団したため、そちらの活動が忙しかったのだと思います。(ちなみに劇団「雲」は、その後、岸田今日子さん・中谷昇さんなどが中心となって演劇集団「円」を結成。平光君も研究生としてその創立に加わり、数年後、「円」の正劇団員となっています。また、当時の創立メンバーには、平光君の現在の奥様、千種かおるさんがいました。) つかこうへいさんの原作戯曲を使っていた時代の劇団「魔天楼」公演は、「出発」を起点にその後、2年間に渡って3本公演しています。平光君が直接タッチしていないので簡単にまとめておきます。 昭和50年(’75年)秋~冬 池袋小劇場にて「郵便屋さん、ちょっと!」 原作:つかこうへい 演出:車 忠則(松本きょうじ) 出演は、椎野保之、安西正弘など。 昭和51年(’76年)夏 水道橋・労音会館にて「熱海殺人事件」 原作:つかこうへい 演出:車 忠則(この時は確か、多田誠が演出だったような…?) 出演は、松本きょうじ、椎野保之など。 昭和51年(’76年)冬 浅草・木馬館にて「生涯」 原作:つかこうへい 演出:車 忠則(松本きょうじ) 出演は、椎野保之、橋本紀代子(後の魔天楼の主演女優になる) そして、赤星昇一郎、高野寛(後の魔天楼の二大看板になる) ここまでがいわば、「魔天楼」前史。「色鉛筆」時代がエピソード①とするならエピソード②にあたります。エピソード③にいたって、「魔天楼」サーガはいよいよ黄金時代をむかえます。 エピソード③は、それまでプロデューサー役だった平光君が、つかこうへいさんの戯曲を読むうちに「こんな戯曲だったら俺でも書ける」と大胆にも思ったことから始まります。 時あたかも昭和51年(’76年)。(多分) すでにつかこうへい原作時代の「魔天楼」メンバーはバラバラ、ほとんど活動休止状態でした。 平光君が、つかこうへいのレトリックを取り入れつつ、後の怪物ランドのネタ元となるギャグを織り込みながら書き上げた最初のオリジナル戯曲が「エレナ~芸能界はつらいよ~」だったのです。 公演は、この年の秋(多分)。場所は東長崎のジーンズショップ二階のイベントスペース「タロー村」。 出演は、プロデューサー役に高野寛、マネージャー役に赤星昇一郎。新人アイドル歌手のエレナ役に、当時演劇学科の2~3年後輩だったえっちゃん(本名は忘れました)、その恋人役に同じく2~3年後輩の北村行正君。その他の配役には、演劇学科、放送学科の同級生や後輩があったっています。この中に、後の名脇役として活躍する石川雅史(SF作家石川喬司の息子)がおり、制作および衣装など裏方スタッフに放送学科後輩の北原葉子、ケロ(アダ名)、メイ(アダ名)などがいました。 内容は、新人アイドル歌手・エレナの売り出しとそれに絡まる芸能界のしきたりに苦悩するプロデューサーとマネージャー、恋人との別れ…等々、いたって他愛ないものですが、後の「魔天楼」のベースとなる“笑わせて、最後に泣かせる”というストーリー展開はここに始まったと言えます。また、赤星・高野の二枚看板、北原やケロ、メイのスタッフ陣もこの時の陣容が基本になりました。確か、「エレナ~芸能界はつらいよ~」は、同じ東長崎「タロー村」で再演していると思います。 初演、再演ともに土日にかけての3回公演、収容人数は100人ほどのスペースですから、手売りのチケットでトータル300人ほどの動員だったと思います。また、つかこうへい演劇の影響から多数の歌謡曲、当時のヒット曲を使用、 その選曲とテープ作り、本番での音響は僕が担当しています。 その再演後だったか、初演と再演の間だったか思い出せないのですが、多分、昭和51年の秋か、昭和52年の冬、平光君のオリジナル戯曲&演出の第二弾「新撰組さん、こんにちわ!」を公演。 場所は、東長崎「タロー村」 出演は、近藤勇:高野寛、土方歳三:赤星昇一郎、沖田総司:北村行正、他。内容は、新撰組の池田屋騒動をベースにしたギャグとパロディーで綴る男たちの友情物語。(だったように思います) この公演も大成功をおさめ、オリジナル戯曲路線は勢いづきます。 さて、この年(’77年)、平光君は後の黄金時代を見据えたある重大な決断を行います。それが、僕こと石塚千明へのオファー(ははは!)だったのです。 平光君は、高校時代から自主映画のシナリオを書いていた僕に、「千明なら芝居の戯曲も書けるはず。オリジナルを書いて演出もしてくれないか。」といったのです。当時の僕は、制作費や発表の場がないことから自主製作映画に行き詰まりを感じており、小劇場演劇なら手売りで若干の黒字も見込めることから、気安く引き受けてしまったのです。 こうして、ちあき由宇(当時の僕のペンネームです)のオリジナル戯曲と演出による劇団「魔天楼」第8回公演(つか時代から通算)の火ぶたは切って落とされました。 タイトルは「魔天楼のDOWNTOWN物語」。この時からしばらくタイトルに「魔天楼の~」を付けるようになり、映画やテレビをパロディ化したタイトルになりました。 場所は、この時をきっかけに以後、公演のベース基地となる池袋シアター・グリーン。公演期間は、確か5月下旬か6月上旬の3日間だったと思います。 この時の出演者は、前出の安西正弘がゴットファーザー役、敵対するマフィアに赤星・高野、若きドン役に北村行正、愛人役にケロが扮しています。 平光君は、記憶にないのでこの公演ではプロデューサーを務めたと思います。(出演したとしても、ほんのチョイ役だったと思います)結果は、3日間ほぼ満員で大成功でした。 この公演後、もう一人、黄金時代につながる重要な人物は「魔天楼」に加わります。 そうです、郷田ほづみ君です。当時、玉川大学・演劇学科に入学していた郷田君は平光君の紹介で、入団。以後、かる~い演技の持ち味で、赤星・高野に次ぐナンバースリーへと登り詰めてゆきます。 この年は、初戯曲・演出の成功に味をしめた僕が、平光君のおだても手伝って冬に「魔天楼の大脱走」を公演したと記憶しています。 作・演出:ちあき由宇 場所は池袋シアター・グリーン 配役は、捕虜収容所のドイツ軍将校や兵士に、赤星昇一郎、郷田ほづみ、石川雅史。 アメリカ軍の捕虜役に、高野寛、北村行正、など。 平光君は、ここでも出演した記憶がありません。 明けて、昭和53年(’78年)。平光君は、壮大な企画をぶちあげます。 それが、名付けて「魔天楼フェスティバル」。当時、平光&ちあきのツートップ作:演出で勢いに乗っていた「魔天楼」は、5月の週末の3日間、4週連続して池袋シアター・グリーンを借り切って4本連続公演を敢行しようという訳です。 4本通しチケットで一気に観客動員数の倍増をねらったこの目論見、もう、やるっきゃありません。演目は、平光&ちあきの再演各1本に新作各1本を加えた計4演目。上演した順序は定かでありませんが、そのデータを列挙します。 「魔天楼フェスティバル」 ●「魔天楼の芸能界はつらいよ」 作・演出:平光琢也 出演:高野、赤星、郷田、他 内容:先の「エレナ~」の改訂版。 ●「魔天楼の大脱走」 作・演出:ちあき由宇 出演:高野、赤星、郷田、他 内容:先の「大脱走」の改訂版。 ●「摩天楼の新撰組血風録」 作・演出:平光琢也 出演:高野、赤星、郷田、他に加え、前出の橋本紀代子が沖田総司役で出演。 内容:先の「新撰組さん、こんにちは」の改訂版ではなく、沖田の苦悩を中心にした、かなりシリアスな新作。 ●「魔天楼の千夜一夜物語」 作・演出:ちあき由宇 出演:高野、赤星、郷田、橋本紀代子、他。 内容:レイ・ブラッドベリから想を得たダンス中心の変則オムニバス・ミュージカル。 この「魔天楼フェスティバル」から、現在、郷田君の奥様の山本直美が女優として参加。劇中のダンスの振り付けはすべて直美が担当しています。 |