さぁ、いよいよ「怪物ランド・サーガ」も最終章「エピソード⑤」に突入です。 ノッケからいきなり何ですが最終章はいわば「祭りのあと」。わが世の春を謳歌していた怪物ランドにもレギュラー番組終了と同時に「冬の時代」が到来します。 いくら深夜番組とは言えあれだけの人気を誇っていた訳ですから当然各局のプロデューサーやディレクター、各制作会社から新番組の企画が殺到するものと僕は思っていました。 後で考えれば僕が先頭に立って新番組を企画すべきだったのかもしれませんが、じっくり腰を据えて番組を企画する「田辺エージェンシー」の事、何か秘策を練っているにちがいない、何かあったら僕にもお声がかかるだろうとのんびり構えていたのです。 僕個人の事情で言えば、「何、ソレ!?」の頃から時間ができたので川崎良さんが新番組を紹介してくれいきなりゴールデン・タイムの番組を構成(多分「鶴瓶のテレビ大図鑑」)。高麗さんの紹介で「ファッション通信」の構成を手がけるようになったのも多分この年(’86年)の10月からだったように思います。そんなこんなでレギュラー番組が一気に3~4本になり身辺がにわかにあわただしくなって来ましたが僕はいわば怪物ランドの座付き構成作家、平光君からのうれしい新番組のお知らせを待っていたのです。 そんなある日、多分昭和61年(’86)12月か昭和62年(’87)1月頃、平光君から待望の連絡が入りました、「今、面白い事やってるから見に来い」と。勇んで行ってみるとそこは音楽の練習用スタジオ、シンセサイザーやらギターやらパソコンやらを並べて怪物ランドがミュージシャン然として鎮座在してるではありませんか!訊けば、田辺社長にこれからの展開を相談した所、「お前ら自身の新しいフォームを考えろ。それまではテレビに出なくても良い」と言われ悩みに悩んだすえ出したのがこれだ、と。これからはコントじゃない音楽だ、と。ついては、自分たちが楽器を演奏してオリジナル曲を歌って新しいスタイルのバンドを作るんだ、と。「よりにもよってバンドかよ~、新展開は新展開だけどすげぇ急展開だな~、第一楽器できたっけ?」と僕。郷田君は多少ギターに覚えがあるものの平光君は高校時代ドラムを遊びでぶっ叩いていただけ赤星君に至っては酔っぱらってコンガかマラカス振り回していたのしか見た記憶がございません。「だから練習するんだ、ついては比較的こなしやすいシンセサイザーを覚えて打ち込み系のテクノ・バンドにするんだ」と平光君。見ればインストラクターの先生もいらっしゃる。平光君はパソコン買い込んでシンセ、同じく郷田君はシンセとギター&メインヴォーカル担当、赤星君はエレクトーン担当らしい。 さっそく練習開始。先生が出した課題曲と作りかけのオリジナル曲の一部を拝聴させていただきました。大体昔から友達の素人バンドの練習に付き合うと1曲として完奏できた試しがないのですがここでもその風景が再現された訳です。見たところ平光君はパソコンに夢中らしく「新しいソフトが欲しいんだよねぇ」とか言ってます。音楽を聴くのは大好きですが事、楽器に関しては僕も平光君以下、口出しのしようがありません。ま、給料制だしじっくり構えて練習すれば怪物ランドの事だからいずれ面白いスタイルのバンドができるにちがいない、と今後に期待してその日はスタジオを後にしたのでした。 その後、3~4ヶ月たってから再び練習に付き合ってみると確かに演奏の腕は上達。オリジナル曲も3~4曲出来てるようで聴かせてもらうとギャグ・タッチの歌詞でなかなか面白いと僕は思いました。平光君としては、オリジナル曲を10曲ばかり作ればCD(レコードか?)が出せるし、何と言っても自分たちだけでライブが出来る、コントやギャグを織り交ぜたMCを挟みながらライブをやれば、これすなわちニュー・スタイルのコミック・バンドではないか、と言う事で役者らしく最終的にはステージに立ちたいようでした。コミック・バンドからコント・グループになった例は数多くありますが、コント・グループからバンドになっった例は聞いたことがないのでこのユニークな構想には僕も充分に納得。ですが僕にタッチできる部分はないし(作詞の能力については「ウソップ」で実証済)、「頑張ってくれ」と言う他ありませんでした。 結局、その後半年ぐらいかけてオリジナル曲のヴァリエーションも完成。吹き込んだテープを御前会議にはかったところ音楽に強いこだわりを持つ田辺社長のゴーサインは出なかったようです。いくら練習を重ねたとは言え急ごしらえのバンドですから無理な試みだったのかも知れません。さらにその後形を変えいくつかの展開を試みたようですが、最終的には「温存策」に耐えきれなくなって自ら退社を申し出たそうです。 その後、平光君は「演劇集団 円」に戻り、赤星君は前出の菅原さんが設立した会社「ぐあんばーる」に所属、郷田君は個人マネージャー(多分、現在の「ラブ・ライブ」社長?)のもとでばらばらに俳優としての仕事をするようになったのでした。怪物ランドとしては平光君言うところの「潜伏ランド」(?)の状態ですが、個々の俳優としては三人とも昼メロや深夜ドラマに時々出ていたので一応安定しているように見えました。 そんな怪物ランドが3年間にわたる沈黙を破って再び活動を再開したのが「怪物ランド・プロデュース公演」だったのです。VOL.1「WATER」からVOL.7「フェロモン」にわたる公演の詳細は本サイトの別コーナーにリスト・アップされてるのでここでは詳しく述べません。大体僕は稽古と本番を1回づつ見ていますが(「フェロモン」、「セクソフィー」、「ドミネーション」はビデオで記録)個人的な印象をざっと挙げてみましょう。 「WATER」(’89年9月) この時確か僕は平光君に「アート・オブ・ノイズ」のCDを提供しています。気に入ったようで以降の公演にも度々使われてました。五幕のオムニバス形式(プレイ・コンプレックス)で怪物ランド復活の心意気が感じられました。 僕としてはフレッシュな宮崎強くんが印象に残ってます。 「フェロモン」(’90年7月) バンド練習の成果を第三幕で披露してます。バンド名は魔天楼時代僕がさかんに使ったのをもじって「アラマッチャン・パーソンズ・プロジェクト」。一番印象的だったのはもちろん少女役の女の子。 「セクソフィー」(’91年3月) どうも平光君の体質なのかセクソフィーと言う割にはエロスが感じられません。 ま、これは魔天楼時代から言われてた事ですが…。だからこそ一条さゆりさんの存在感が圧倒的に目立ちましたね。 「ドミネーション」(’92年3月) 僕もスーパーバイザーとして参加してます。平光君・一条さんのパートを見ていただけですが、久しぶりに芝居に関わってみて感じたのは「やっぱ芝居は手間暇かかる」でした。 「怪物ランド・プロデュース公演」全体を通しての僕の感想は「ウェルメイドで上々の出来」。 後年平光君も言ってました「面白くてそこそこ評判のとれる芝居はいつでも作る自信がある。でもそう言う芝居を何本つくっても何にも変わんないんだよね…」 これがその後「怪物ランド・プロデュース」をやらない理由なんでしょうね。 この時期、僕も何もしなかった訳ではありません。 「ウソップ」終了から5~6年たち現場のプロデューサーやディレクターから「あの番組面白かったね」と言われるたびに、遅まきながら「ウソップ・リターンズ」的な番組企画を持っていってたのです。しかし「潜伏トリオ」時代の事、最早怪物やウソップのネームバリューだけでは通用しないという事で、一時期、週一回の割で僕の家に怪物の三人が集まり新番組の企画出しの会議を行っていました。そこで出たネタを僕が企画書にまとめ知り合いの制作会社に持ち込んでいたのですが、そんなある日、赤星君の所属事務所「ぐあんばーる」の社長・菅原さんからこんな提案がありました。 「企画書だけではインパクトがないので、企画内容を映像化した番組企画ビデオを作ってみては?」と。ついては制作費や様々な手配は全てやってくれると言うありがたいお申し出。こうして10本ぐらいの企画の中から合体・抜粋して僕が台本を書き、「ぐあんばーる」所属の井上明美さん(NHK朝の連ドラに出演、怪物ランド・プロデュース公演にも出演している女優)をアシスタント役にフィーチャーして、「番組企画ビデオ」のロケは’93年3月27日から28日の二日間にわたって行われました。絵の出る企画書として撮影したのは次の3本。 「イベントバラエティー番組・フリーマルシェ」 これは当時平光君の「ギャグの逆セリ落とし」と僕の「付加価値マーケット」のアイデアを合体した企画。当時流行り始めていたフリー・マーケットを番組が主体となって開催、一般から応募したユニークでこだわりのある露店が並ぶ中で怪物オリジナルのお店を出店。例えば「付加価値マーケット」では小泉キョンキョンの口紅が付いた紙コップを局のカフェかなんかで入手してきて3万円ぐらいで売っちゃうとか、「無形物マーケット」では使い古されたギャグや「一年間醤油を使わない根性」「一日パンティーをはかない勇気」など形のない物を販売。マーケットのレポートと共に応募状況や販売後の検証レポートも合わせて番組にすると言うもの。ロケは「世田谷公園」で実際に行われていたフリー・マーケットに潜り込んで撮影しました。 「男の育児番組・ファイナルプリンセス」 当時はすでに怪物三人ともに良きパパという事で、男の育児をテーマにしたシチュエーション・ドラマ。かわいい盛りだった平光君の愛娘・栗子ちゃん(今はもう高校生?)をおもちゃで釣って連れだし三人のパパという設定(怪物プロデュース「フェロモン」の設定と映画「スリーメン&ベイビー」の設定を合体)でアドリブ・ドラマを展開。ゲスト・トーク・コーナーでは女性タレントを呼んで「お父さんとはいつまでお風呂に?」とか「初体験はお母さんに報告した?」とか育児の参考という理由でエッチな質問をしちゃおうと言う番組。 「外国語バラエティー番組・サルでもわかる英語」 流行りのCMのキャッチコピーや人気テレビ番組の名場面を英語劇に翻訳してケース・スタディーしようという嘘くさい教養講座番組。もう明らかに「ウソップ」の予告編パロディやCMパロディの焼き直し版ですね。 以上の3本を平光君と僕のMCを挟みつつプレゼンテーション、ちゃんとBGMもテロップも入れて30分ぐらいにまとめたこの「番組企画ビデオ」、十数本コピーして各制作会社に配ったのですが、これと言った芳しいリアクションは得られませんでした。その後「とんねるずのハンマープライス」を見たとき「付加価値マーケット」に発想が似ていてみんな同じ様な事考えてるんだなぁと思いましたが。(決してパクッたなどとは申しません)。 他に「ぐあんばーる」さんがらみの企画としては、この後1年ぐらいしてから「番組企画ビデオ」の時のプロデューサーとして様々な手配をしてくれた制作部長(当時)・白石高明氏からこんな提案がありました。 「怪物ランド解散公演と銘打ってライブは出来ないだろうか」と。ついては「築地本願寺の境内にあるブディスト・ホールを使ってお葬式形式でやったら面白いんじゃないか」と。さっそく考えてみましょうと、我が家に怪物を招集して白石君からの提案を伝えた所、すかさずキャッチフレーズは「すいません、僕たち解散するの忘れてました」だねと平光君は乗り気。僕は「怪物ランドを葬るんじゃなくてネタを葬るの。かつてのネタを舞台で披露してそのカツラとか小道具とか衣装を棺に入れてお坊さんがお経をあげる、と」「じゃ、チラシはご会葬のご案内だね」と平光君。「そう、入場料は御霊前。スタッフ全員喪服着ちゃってさ」と、たちまちアイデア続出しましたが、「でも怪物ランド解散しちゃって次に何かやりたくなったらどうすんの?」と郷田君。「次回は怪物ランド復活公演になる訳だよ。解散・再結成なんか何回繰り返したっていいんだから」と僕。 様々なアイデアが出て盛り上がったのはいいんですが、肝心の「ぐあんばーる」所属の赤星君がいくら待っても来ない。聞けば旧友と一杯飲んでから来ると。赤星君は飲み始めちゃったらもうアウト、打ち合わせなんぞ最早忘却の彼方。また機会を改めて話し合おうと言うことでその日は散会。結局その後なんだかんだで時間がとれずこの件はバックレる事になってしまいました。(せっかくの良い企画なのに白石君ごめんなさい) 正確には覚えていませんが、この時期「怪物ランド」はテレビの深夜番組にレギュラー・コーナーを持っていました。 それが、井森美幸さんのトーク・バラエティー番組「イモリ帝国」。(日テレ・深夜) 川崎良さんのお声がかりで構成作家にフィーチャーされた平光君がこの番組内で作ったのが「東京フュジティブ(逃亡者)」。 内容は無国籍都市(多分、下北沢あたり)を舞台に、「アトム・コント」のようなデタラメ語をしゃべる三人が追いつ追われつの追っかけっこを繰り広げるサスペンス・ギャグ・ドラマ。台詞はすべて字幕スーパーで怪物をよく知っている人には面白いと思うのですが、所詮は人のフンドシ、確か半年ほどで終了したと思います。ちなみにこの番組内のドッキリ・コーナーに僕も平光君にダマされて一度出演しています。多分これが「怪物ランド」としてテレビに出演した最後の番組だったと記憶しております。 ともあれその後怪物ランドの三人は俳優・声優として大活躍といえる健闘ぶりを見せているのはご存知の通りです。 中でも平光君は近年、演出家としての手腕が高く評価され「美少女戦士セーラームーン」(僕も’94年の初演出と’98年の演出作を見ました)はじめ「ハンター×ハンター」からモー娘。シェイクスピアに至るまで硬軟取り混ぜて上質の舞台を手がけております。結局、三人とも高校時代からの初志を貫徹、演劇の世界で活躍してる訳ですから、まずはめでたし。 最近は年に2~3回顔を会わすんですが、会うたびに口をついて出るのが「何か面白いことやんない?」。 「ウソップランド」から今年で早20年、ここまで来たんだ、 僕も“継続は力なり”を肝に銘じてじっくり腰を据え、前向きに継続性と発展性のある企画を考えるとしましょう。 これからも、平光君、赤星君、郷田君、そしてユニットとしての怪物ランド、さらに願わくば石塚千明めの活躍に、乞うご期待!! と、エールを贈って筆を置くことにしましょう。ご精読ありがとうございました。 |
石塚千明が語る 魔天楼サーガ その4
大変、大変遅くなりました。
半年先、あるいは1年も先の番組企画に追われていました。ま、余計な言い訳をせずにとっとと書き始めましょう。以下から、第四弾、「怪物ランド・サーガ・エピソード④」です。
さてさて、昭和58年(’83年)5月の「お笑いスター誕生」ストレート10週勝ち抜きを機に、怪物ランド周辺はにわかにあわただしくなります。ま、当たり前といえば当たり前ですが、お笑いニュースターの誕生という事で、様々な芸能プロダクションからお声がかかる訳ですね。これが、お笑いの付かない「スター誕生」だと、審査結果の段階で各プロダクションの札が上がるので、グランプリ獲得と同時にほぼ所属プロダクションが決定するのですが、お笑いさんはまだそこまでマーケットが出来ていない。今でこそお笑いタレントはトップスターですが、当時はまだまだ「イロモノ」で、通常のタレントや歌手より一段格下という考えが根強く残っていました。「お笑いスタ誕」の通例として、番組の制作会社でありお笑いタレントも何人か抱えている「日企」さんからまずお声がかかります。
「お笑いスタ誕」出場時点ですでにプロダクションに所属している者もいました。例えば、確か「シティー・ボーイズ」は「人力舎」というプロダクションに所属済みでしたが、怪物ランドはもちろん無所属。当然、最初に「日企」さんからお声がかかりました。その他「人力舎」はじめいくつかのプロダクションから声がかかったのですが、ここへ来て、思わぬビッグ・プロダクションが怪物ランド獲得に動き出したのです。そうです、当時「笑っていいとも」を大ヒットさせたあの「タモリ」の所属する「田辺エージェンシー」が、社長・田辺昭知氏自らの希望で声をかけて来たのです。
平光君から僕に「どこにしたらよかんべ?」(小田原弁)と相談がありました。が、しかし、平光君の胸の内ではすでに決めている事が、長年のつきあいですぐにわかります。今や「ホリプロ」「ナベプロ」はじめ多くの大手芸能プロダクションがお笑いタレントを抱えていますが、当時、歌手やタレント中心だった大手芸能プロダクションの中で唯一「イロモノ」系タレントを抱え、番組制作も手がけ、しかも大成功させていたのは、「田辺エージェンシー」をおいて他にありません。
当時、「田辺エージェンシー」および系列会社に所属していた大物と言えば、タモリさん、堺正章さん、研ナオコさん、中原理恵さん、由紀さおりさん、小林麻美さん、さらにアルフィーさん、等々そうそうたる顔ぶれ。その頃破竹の勢いだったアルフィーさんも大ヒットが出るまで数年間も温存されていたと言う噂もあって、とにかく安売りしない、待ちの姿勢で知られる筋金入りの芸能プロ。こりゃあ、平光君ならずとも「ここっきゃねぇべ!」と思う訳ですね。かくて、昭和58年(’83年)、5月の終わりか6月初め頃、「祝!怪物ランド・田辺エージェンシー所属!」となったのであります。
さぁお立ち会い、ここからが急転直下、すごい勢いで事が展開していきます。
まず、怪物ランドと田辺社長との面談第一声が「お前らは自分の番組でデビューさせる」と、こうですもの。所属が決まった時には、「まぁ、バラエティー番組のゲストとかアシスタントとかでテレビに出られるんだろうな、あ、いいとも青年隊の後釜になっちゃったらスゴイよな」なーんてお気楽に構えていた訳ですから、そりゃもうビックリ!
ついては、「お前らの周りで台本とかチョウチンとか書ける奴連れてこい」と。(ちなみにチョウチンは当時の田辺社長の口癖。別に意味はない) チョウチンは書けないけど台本は書けると言うことで、ついに私こと石塚千明めの出番とあいなった次第でございます。すぐに、当時は飯倉片町にあった「田辺エージェンシー」の会議室で、後に「御前会議」と呼ばれる番組企画会議がスタート。
大体週1回、夕方から深夜、時には明け方まで行われた「御前会議」の参加メンバーは…
田辺社長を筆頭に、怪物ランドの3人、僕、既に担当が決まっていたマネージャーの石崎順子、時々参加して鋭い事を言う当時チーフ・マネージャーで専務(?)の菅原さん(現在「ぐあんば~る」社長)、そして何と言っても、後に重要な戦力となる前田光司(現在、多分「電通プロックス」でCF制作をしてると思う)。彼は当時、立教大学在学中で映画研究会か何かで数本8ミリのショート・フィルムを作っているらしく多分台本も書けるんだろうと、赤星君が連れてきました。初めのうちは他に何人か知り合いの演劇人やコント作家も参加しましたが、どうもソリが合わなかったのか結局残ったのは僕と前田君だけでした。
田辺社長からの話の概略は、「タモリ倶楽部(この1年程前に現在と同じ金曜・同時間帯でスタート。当時の構成作家は故・景山民夫さん))に繋げる形で月曜から木曜まで深夜の帯番組を作る、いわばラジオの深夜番組のテレビ版だ、まずは月から木までどんな番組のヴァリエーションがあるかを考えろ、チョウチン」と言うもの。さらに自分たちの番組を考えるにあたっての心構えとして「お笑いスタ誕でやってたネタは面白いと思うが、ネタ勝負でやってたら番組は10回で終わってしまう。テレビ番組として“続く仕組み”を考えろ、チョウチン」と。こう言われればこちらは劇団出身ですからまず頭に浮かぶのが連続ドラマ。折しも「タモリ倶楽部」では「愛のさざなみ」という連続ドラマのコーナーが人気を呼んでいたので、その怪物ランド版を咄嗟の思いつきを述べると、「あのドラマは、好きな女がいて上手くいきそうになると何か邪魔が入って結局できない、このヤリたくってもデキねぇと言うのが連続ドラマの基本的セオリーであり、これが “続く仕組み”なんだ」と。「テレビって深い!」と舌を巻く平光君と僕。大体劇団の座長をやっていた若僧なんか多かれ少なかれ自分にカリスマ性があると自惚れているもんですが、そんなもの足下にも及ばない本物のカリスマ性とハイ・テンションな語り口に、平光君も僕も茫然自失、圧倒されっぱなしでした。
他にも実に様々な実体験を例に挙げて番組作りの奥深さを教えていただいたのですが、今に至るも最も強烈な印象として頭に焼き付いているのがこの “続く仕組み”と言う言葉。それまで、ただひたすら1本の芝居やコントの作品的完成度を追い求めて来た者にとって “続く仕組み”というのはまったく頭の中になかった概念。この「番組は第1回目から最終回までで1作品」、ぶっちゃけて言えば「番組は続けてナンボ」という事を後に身を持って思い知らされる訳すが、私はこれを「継続は力なり」とカッコよく置き換えて現在も作家としての “座右の銘”としております。
閑話休題。田辺社長から文字通り様々な「薫陶」を受けつつ、「御前会議」は回を重ねてゆきます。その都度、コーナー案やコントのネタをレポート用紙に書いて持ち寄りみんなで検討、それを徐々に台本にまとめていった訳ですが、社長はそれをチラっと見るものの個々のネタや台本の善し悪しについては一切言及なし。「そろそろ台本にまとめろ」とか「そろそろ番組のタイトル考えろ」とか進行状況にだけ気を配って、あとは僕らのペースにまかせてくれました。
(番組タイトルが決まった経緯については他のコーナーで書いたと思うのでそちらをご参照下さい)
その当時書いたネタや台本は最終的にレポート用紙にして300枚以上、厚さ5~6センチに及んだと思いますが、何故か個々のネタや台本の記憶は一切ありません。(多分その時点では使い物にならなかったからだと思いますが、いくつかのアイデア自体は後にリサイクルしたはずです) ただ、僕個人としては当時人気だった「川口浩の探検隊シリーズ」(現在藤岡弘版で復活)をパロッたいわゆる「ウソ・ドキュメンタリー」に固執していた記憶があり、平光君は人気テレビ・ドラマのパロディーをやりたがっていたように思います。結果的に僕と平光君の思い入れは「ウソップランド」の前半と後半に反映される事になったのですから、結果オーライと言う訳ですね。
今にして思えば、劇団「魔天楼」の初期時代から「お笑いスタ誕」まで連綿と受け継がれてきたのがこの「パロディー精神」。その時々話題を呼んでいるテレビや映画、社会現象や時事ネタを皮肉ったり、毒を吐いたり、笑いものにする「パロディー」がやりたかったんだと、遅まきながらも気が付いた事がこの時期の最大の成果と言えるでしょう。端的に言えば「パロディー」イコール「嘘」と言うことで「ウソップランド」の番組タイトルだけが6月から8月まで3ヶ月かけて決定した事だったのです。ちょっと情けないけど…。
さて、季節は怒濤の夏を過ぎ早くも9月に突入。10月スタートの番組ですからもう制作体制を固めていかなければなりません。この時点で田辺社長から「現場を仕切る制作会社が決まった。担当のディレクターは若いけどヤリ手らしいよ」と紹介されたのが「ミュージック・ファーム」(現在「エム・ファーム」)であり、当時33才の気鋭ディレクター高麗義秋(現「エム・ファーム」社長)だったのです。まだテレビ業界を何も知らない僕がこの時思ったのは、「アレ?田辺エージェンシーが現場も制作するんじゃないの?」と言う事とグラデーションのサングラスをかけた高麗さんの姿に、「いよいよ業界っぽいディープなゾーンに入って来ちゃったな…」ってな感じ。これに対して高麗さんの第一印象は、「変な奴ら任されちゃったぞ、まいったなこりゃ…」って感じだったと後に語っております。ま、「ヨロシクオネガイシマース」式の新人紹介に慣れていた高麗さんとしては、当時すでに28才(僕と平光君)のトウの立った新人がこう映ったのは当然かもしれません。両者を紹介した田辺社長はそのまま「じゃ、あと任すわ」と帰宅。後に残された怪物ランド、僕、前田君、石崎さん、と高麗さんの間で腹のさぐりあいが始まります。
最初、僕らが一応台本にまとめた部分を見せて高麗さんに意見を伺った所、チラっと見て「はい、わかった」とつれないご返事。ま、これもテレビ台本の体裁を成していなかった訳ですから読んでも何が何だかわからなかったのでしょう。で、高麗さんから出たのは「オープニング・タイトル、どんな感じにしようか?」と言うもの。そのまま、やれ昔のハリウッド映画のクレジット風がいいだの、分厚い辞書を開く感じがいいだの喧々囂々、結局何の結論も見ないまま朝を迎えたのでした。波乱ぶくみのファースト・コンタクトでしたが、この時はまだ後に控えた大波乱を知る由もなかったのです。
これに継いで、テレビ朝日の初代番組プロデューサー・皇達也氏から連絡が入ります。「企画書が必要だ」と。それまでテレビの企画書なんぞ書いたことない僕ですが作家なんだから「とりあえず来い」と。こうして、怪物ランド、石崎さん、僕、前田君、が飯倉片町「キャンティ」の皇さん前に集合。どうも状況として僕がその場で書かなきゃいけない雰囲気。皇さんは「もう、スポンサー(リクルート)も制作会社も決まってんだから簡単でいいんだ」とおっしゃるものの何をどう書いていいものやら…、冷や汗を流しつつA4レポート用紙にでっち上げたのが、
「企画意図:テレビの深夜帯に若者の解放区を作ります。企画内容:様々なテレビ・映画・ブームをパロディー化した若者向けの情報バラエティー番組です。」
以上、わずか2~3行。
通常、番組企画書ってものは切りつめて書いても5~6枚にはなるものですが、見よこのシンプルさ!
今や通算300本以上の番組企画書を書いている僕ですが、時代が時代とはいえこんなんですんなり通っちゃたんですもの、あぁ、あの頃に帰りたい…。 「パロディー化」という言葉を使ったかどうか定かではありませんが、この時点で決まっている事といえば、確かにこんなもんだったのです。
そんなこんなで舞台は飯倉片町「田辺エージェンシー」から、当時乃木坂にあった「ミュージック・ファーム」へと移ります。初めて行ってビックリ、「ミュージック・ファーム」の会議室には高麗さんをはじめ構成作家が3人、それぞれコント台本持って待ち受けていたのです。高麗さんいわく「30分の番組を維持するには3,4人の作家が必要だから腕っこきの作家に来てもらった」と。「それぞれショート・コントを書いてもらったから読んでみてくれ」と。読んでみると、怪物ランドのキャラクターをまったく無視した内容。作家は誰一人として怪物ランドを知らないんだから当然と言えば当然ですが、この時は僕も怪物ランドもさすがに頭に血がのぼりましたね。「僕たちの書いた台本はどうなったのだ」と。「読んだけどどう撮っていいかわからないから、こっちの台本をアレンジしてやってくれないか」と高麗さん。細かな状況は忘れたけど本当に頭に来た僕は「そうか、僕は作家としてお呼びじゃない訳か」と、捨てぜりふでそのまま帰宅。以後、何回か平光君か「あんな台本じゃできない、お前がいなきゃ困る」と電話があっても「いいや、俺は降りる」と腹をくくってしまいました。
この時点ですでに10月、もう第一回目の収録をしないと間に合いません。これは後で知ったのですが、平光君はずっとゴネ続けて結局、「お笑いスタ誕」で発表してなかった「精子コント」をベースに書き直し近所の公園でロケして何とか第一回目をしのいだのです。
大波乱の幕開けにふさわしく、「ウソップランド」第一回「精子社会に挑む」のロケは台風のさなかに行われたそうです。
そーいった訳で、「ウソップランド」の記念すべき第一回目に限って、僕はまったくのノータッチ。「くそっ!業界の罠にはまったな」とふて腐れておりました。そんな時、高麗さん本人から電話があって「ひどいロケだった、あんなんじゃ2回目以降続けていけない。なんとか怪物ランドとの間に立って台本書いてくれないか」と。根が軽薄な僕は「そうか、やっぱり俺がいないとダメか」とたちまち機嫌を直し、おっとり刀で「ミュージック・ファーム」へ。その後連日、高麗さんはじめ、時には怪物ランドや他の作家諸氏を交えて話し合い「ウソップランド」の制作体制を作っていったのです。
第二回目の収録にはまだ少し間があったのですが、そう簡単に制作体制が整うはずはありません。台本作りの作業をしながら2ヶ月ぐらいかけて内容を固め収録スケジュールを決めた行ったように思います。ですから手元に何の資料も残ってないのでわかりませんが、第一回目から最初の数本はかなりシッチャカメッチャカの番組内容だったと思います。
台本作りとロケをこなしながら平行して週1回(最初のうちは週2~3回)エンドレスの会議が行われました。
その会議の参加メンバーは…
怪物ランド、僕、前田君、高麗ディレクター、石崎さんをはじめ作家諸氏と関係者。
川崎 良(通称良さん)放送作家兄弟の末弟(兄は「シャボン玉ホリデー」を手がけた河野洋さん) にしてバラエティー界期待の若きプリンス(当時)。その後、「タモリのジャングルTV」他、多数の人気番組、「ヤマダかってない」等のCMコピーも手がける。
清水 東(通称東君)同じく草分け的放送作家を父に持つバラエティー界のサラブレッド(当時)。
「サザエさん」の台本はじめ、その後、「笑う犬の生活」等ウッチャン・ナンチャン系の番組他多数を手がける。
良さん、東君は二人とも一時「8時だよ!全員集合」でドリフのコント台本を書いていた。コントのテイストで言えば良さんは「都会派」、東君は「人情派」と言った感じ。
他に時々参加してたのは…
今野泰臣(通称マンちゃん)ミュージック・ファームのプロデューサー。レコード会社から独立した彼が高麗さんと立ち上げたのが「ミュージック・ファーム」。「ウソップランド」はその初レギュラー番組。ちなみに、高麗さんは、某制作会社の社員時代から「ギンザ・ナウ」や「コッキーポップ」の演出を手がける音楽系ベテラン・ディレクター。
宮下康仁(通称宮下先生)「ウソップランド」には後期からアドバイザー的な役割で参加。TBSの「ザ・ベストテン」等を手がけたベテラン音楽系構成作家。(現在「エム・ファーム」の副社長か専務?)
他に、歴代AD(アシスタント・ディレクター)として、三木ちゃん、後藤君、石野君、春木君、等々。
中でも、石野隆巳君は「ウソップランド」後期にはディレクターに昇格。現在「どっちの料理ショー」等の演出を手がけている出世頭。
約2ヶ月にわたるエンドレス会議で決めていったのは…
まず、これまでの台本は全て捨てて会議をしながらその都度テーマを決め、平光君を含め僕、良さん、東君が手分けして書く。番組前半は僕の固執したウソ・ドキュメンタリーと、高麗さん「社会的な現象やブームなんかの時事ネタをベースにした方がネタが尽きないんじゃないの」との間をとって、「ドキュメンタリー・パロディ」。これは後に、
「もし、この○○ブーム・現象が進むと⇒(艦砲射撃や空襲、ナチスの行進などの資料映像で)やがて戦争に突入⇒その結果こんなになっちゃうかも」と言う「IFパターン」、「この現象・ブームはこんな所にも波及して…」と奇妙奇天烈なヴァリエーションを並べる「カタログ・パターン」、「この現象・ブームをこんな風に楽しもう!」と提案する「HOW TO パターン」等、様々なパターンが開発されました。
番組中盤は、前半の「ドキュ・パロ」を受けて既存のミュージック・ビデオ(当時、全盛期)を尺調整のために30秒から1分、スポンサーが「リクルート」と言う関係上他社とバッティングしないメリットを生かした「なつコマ・リクエスト」、田辺社長の「ラジオのリクエストハガキをテレビでやるんだったらビデオレターだろ」との意見を受けた「チャレンジ・ビデオ」、これは最初、前田君が呼び水として数本の短編ビデオを制作。番組関係者周囲にも応募を呼び掛けたものの時期尚早だったのか集まらず初期のうちに終了。そして番組後半は、平光君こだわりの「ドラマ・パロディ」コーナー。これも、最初のうちの怪物ランドのオリジナル・ネタを披露するコーナーから発展して、魔天楼時代の8ミリから受け継がれた映画や新番組の「予告編形式」、政府公報やお知らせをパロッた「告知形式」、ウソ新製品発売の「CMパロディ形式」、さらに「貧乏パワー」や「バロムI」「バーゲン部」等の「夜のドラマ・シリーズ」へと枝分かれしていきます。番組中期以降はさらに出演者個々のキャラクターを生かした「子泣きジジイ」、「アンケート調査員」、「小雪のヤな野郎」、「だって友達になりたかったんだもん」、「知恵袋おばさん」等、様々なショート・コーナーが誕生しました。
尚、ここで明記しておかなければならないのは今現在一回々々のネタやタイトルを正確に把握している者は、僕をはじめ当事者では誰一人としておりません。
「ウソップランド」(「なに、ソレ!?」も含めて)の放映リストについては、「スタジオじぱんぐ」さん製作の「しんや てれび むかし」に、第一期から第五期に分けて驚くべき詳細さで掲載されております。一体どこで調べたんだ!ってくらい詳細なので是非そちらをご覧下さい。僕をこれを書くにあたって参照させていただいてます。
ちなみに、その第一期1回目から8回目まで「ドキュ・パロ」以外は「NO DATE」となってますが、番組スタート時の大混乱のさなかだったため僕自身何をやったのか皆目覚えていません。ただ第二回目「就職戦線異状有り」、第三回目「プラスチックマネー」となっているので、番組前半の「ドキュ・パロ」コーナーは一番最初に固まったのだと思います。
さてエンドレス会議に戻って、番組構成内容についてはこんな風に徐々に固まっていったのですが、番組オープニング・タイトルとエンディング・タイトルは、高麗さんが良さんと相談してすでに作ってありました。オープニングの画は、「御前会議」の「ノスタルジックな感じ」と「ラジオの深夜番組のテレビ版」を受けてアンティークなラジオの画。テーマ曲は高麗さんの好みで「イン・ザ・ムード」のテクノ・アレンジ。(これは、僕の魔天楼初戯曲「ダウンタウン物語」がベット・ミドラーの歌う「イン・ザ・ムード」で始まったので不思議な縁を感じました)エンディングには「イン・ザ・ムード」に赤ちゃんの泣き声がかぶるのですが、これは良さんの怪物ランドの第一印象「異様な感じ」と、高麗さんが当時夜中に帰宅すると生まれたての息子(林太郎君、現在ADとして活躍中)の夜泣きに悩まされたと言う事を受けて「異様な印象」を残すためあえてかぶせたもの。後になって知る事ですが、新番組がスタートする時この程度の混乱はむしろ常識。会議を重ねるうちにそれぞれの人柄もわかり鉄壁のチーム・ワークが出来ていったのでした。
番組内容と平行して固めていったのが制作スケジュール。これも正確には覚えていませんが多分…
月曜日に怪物ランド、作家陣、演出陣を集めて次回放送分のネタ&構成を決めるエンドレス会議。大体どこの世界も同じでしょうが、テレビ業界は特にぎりぎりにならないと頭も身体も働かない体質。したがって放送分は1本のストックもなしでスケジュールが狂ったら終わりって状態でした。ネタ&構成が決まったら、平光君、僕、良さん、東君で手分けして台本書き、締め切りは翌火曜日の夕方まで。台本が上がってきたら僕がまとめてその日のうちに当時赤坂にあった美術会社「未来」さんでいわゆる美術発注。予算の少ない深夜番組ですから、大道具は基本的になし。持ち道具はおもちゃか紙で作る。衣装は美術担当の辺見さんのコネで無料のものを調達。あとはメイクの飯塚悦子(通称エッちゃん)が顔に何か描いてごまかす、と言う基本方針。
こうして後に「ウソップランド」を特徴付ける「ゴザと卓袱台を置いたらどこでも居間」、「ノーズ・パテを付けたら外人」等の発想は、極小予算の苦肉の策として生まれたのです。ま、平光君や僕など小劇場出身者としては割と当たり前の発想ですが、当時のテレビとしてはかなり「異様」に映ったようです。良さん、東君もすぐに慣れて台本のはじっこに「こーんなカブリ物をボール紙で作って」とかイラストを描いてました。で、翌水曜日は高麗さんと相談しながら僕が「コウバン表」書き。「コウバン表」と言うのは、ロケのタイム・スケジュールに沿ってこの場所で台本○ページのこのシーンを撮影、このシーンの出演者は誰それで、衣装や持ち道具は何々、この間誰それは次の衣装に着替えメーキャップ、等々の段取りを全て詳細に書き込んだ表でまさに「ロケはコウバン表が命」。本来ならADさんの仕事ですが、台本と美術・衣装を全て把握してるのは僕しかいなかったので実質的なAD業務は僕がやらなければなりませんでした。
そして翌木曜日は一日がかりのロケ。通常のロケ・スケジュールは… 午前7時ぐらいの早朝から、出演者、ロケ・スタッフが全員「有栖川公園」に集合。「有栖川公園」は、池あり、滝あり、噴水あり、木立あり、砂場あり、滑り台やジャングルジムもありで色んなシーンがまとめて撮れると高麗さんが探してきたもの。後に公園の上にあるグラウンドは「有栖川ライブ」のステージにもなります。
以来、様々なバラエティー番組でロケの名所となってますが「有栖川公園」を有名にしたのは間違いなく「ウソップランド」であり、自慢じゃないけど僕を含め出演者は全員1度や2度は池か噴水に飛び込んでおります。その「有栖川公園」の中央にある「東屋」が楽屋兼制作本部。出演者たちはここで人目もはばからず衣装替え、メーキャップ、僕は進行状況を気にしながら終始出演者たちに巻きを入れ、台本を小直し、自分出演用の「謎のせむし男の出っ歯」などを切り抜いておりました。ちなみに、その後「有栖川公園」には怪物ファンの女の子たちが続々と集まるようになり数がどんどん増えていったので、「どうせならその子たちを観客にしてコントのライブをやっちゃおう」と始まったのが「有栖川ライブ」です。天気の良い日は公園のベンチに三々五々分かれて「ホカ弁」のランチ・タイム。天気と言えば、ストックがない状態ですからロケはもちろん雨天決行ですが、不思議と雨にたたられた日はほとんどなかったと記憶してます。陽のあるぎりぎりまで「有栖川公園」で撮影して、六本木に移動。フットワークの良い荒井ちゃんやたけちゃんマンのカメラ・クルーが雑景撮りをしている間に、他の者は当時の「防衛庁」隣りにあった「リュウ・スタジオ」入りして、メーキャップやセッティング。ここで残ったシーンを全て撮らないとロケは終わりません。照明の中村さんのアイデアで室内シーンはホリゾントに窓型の照明、夕方のシーンだったら赤く夜はブルーと、ライティングでシチュエーションを作ってこれも大巻きで撮影続行。全てを終了するのが大体午後10時ぐらいでした。翌金曜日は午前中から高麗さんが編集スタジオ(当初は「銀座ビデオテック」、後に「映像通信」)に入って次回放送分の編集作業。今でこそどこの制作会社にもオフライン編集器があり「粗編集」をしてから編集スタジオに入るのが常識ですが、そんなもののない当時はまさにブッツケ本番で編集。夕方には、音効の稲村さん、僕、怪物ランドも入ってそのままMA(マルチ・オーディオ)に突入。魔天楼の予告編に始まり当時はすでにラジオのナレーションも経験していた郷田君の巧みなナレーションを入れ、音楽や効果音を入れ、整音して、めでたく一回放送分の「ウソップランド」が完成。その日のうちか翌土曜日に局に納品して、またもや月曜日、次回放送分の会議に突入するのでした。(今、チラッとロケ日とオンエア日が同じだったような…と言う記憶が頭をかすめました。だとしても金曜会議、月曜台本締め等々曜日が変わるだけで基本的なサイクルは同じですね)
「ウソップランド」の放送は、確か毎週水曜日の深夜0時30分から1時。時期によって多少前後したと思いますが、前にあるのは当時、利根川さんが司会していた「トゥナイト」と「若原瞳のラブリーテン」、その後には何の番組もなく、他局もその時間帯はせいぜい何度も放送した古い映画をやっていたくらいでしたから、まさに深夜番組のパイオニアといって過言ではありません。昭和58年(’83)10月26日にスタートした「ウソップランド」。それに続いて確か半年ぐらい後に、月曜日はテンパイポンチン体操で知られる日本で一番早いモーニング・ショー「グッド・モーニング」(ダウンタウン浜ちゃんの奥様が出演)、火曜日はごめんなさい番組名忘れました。木曜日は「怪物ランド」に続いて「お笑いスタ誕」でグランプリ獲得の「とんねるず」主演のミュージック・ビデオ風ドラマ「トライアングル・ブルー」(構成は多分、秋元康)がスタート。ここに田辺社長の構想したテレビの深夜帯番組が完成する訳です。
さて肝心の出演者ですが、初期に度々出演してもらった旧劇団仲間による「怪物ファミリー」はどこかのコーナーに書いた記憶があるので、ここでは省略します。あと女性タレントですが、松尾享子ちゃんから松本小雪ちゃんに変わった経緯はこれも別コーナーで書いたので省略。僕も忘れていた享子ちゃんと小雪の間に1~2回出演した女性タレントは、前出「しんや てれび むかし」に名前まで詳細に掲載されているのでそちらをご覧下さい。
とにかく「ウソップランド」が皆さんの心に残っているとすれば、それは間違いなくチーム・ワークの勝利。怪物ランドを中心に、彼らのキャラクターを愛し一丸となって番組作りに取り組んだ製作陣のチーム・ワーク(今風に言えば「コラボレーション」と言った所)があってはじめて生み出されたものなのです。「ウソップランド」でテレビの構成作家としてデビューして以来20年、様々な番組制作に携わってきた僕ですが、あの時のあの現場以上に「面白くてしんどい」体験は今だかってありません。
現場の熱気と制作者たちの情熱は確実に視聴者に伝わるものなのです。
以下、各回の内容は「しんや てれび むかし」をご覧いただくとして、僕の印象に残っているものを順不同でざっと挙げましょう。
「カフェバーでスノッブしてみる…」
第7回目。これはスタッフの一人が「最近雑誌なんかによく出てるスノッブって何?」との質問から僕が書いたもの。当時流行ってた青山のカフェバーでロケ、番組前半の「ドキュ・パロ」に始めて怪物らしいテイストが出てきたと自負しております。ロケの日、東京は数年ぶりの大雪だったっけ…。
「スリラーのパロディ・ミュージックビデオ」
テレビ朝日の二代目プロデューサー・湧口さんが「ウソップ初期の傑作」と絶賛。マイケル・ジャクソンの「スリラー」のMVをかなり早く取り上げ、ナチスの亡霊ヴァージョンにアレンジ。ちなみに、魔天楼の「大脱走」で精巧に作られたナチスの軍服を着て以来僕たちは軍服フェチ。怪物があまり必然性もなく軍服を着たがるのは元はといえば劇団時代にさかのぼる訳です。オリジナルの振り付けをいち早く教えてくれたのは、当時「リフラフ」というダンスグループを率いていた「サム」(安室奈美恵の元・夫)でした。(どっかに書いた記憶あるなぁ…) 「リフラフ」のメンバーに矢尾一樹、僕も振り付けを覚えて出演、夜の倉庫街で「ウソップ」としてはかなり大規模なロケとなりました。
「朝の連続テレビ小説・??家族」
タイトル忘れましたが、初期の「チャレンジ・ビデオ」コーナーの応募作品。といっても前に書いた通り、呼び水の作品を作ってと周囲に呼び掛けたところ当時東君と同じ作家事務所でラジオの台本を書いていた三谷幸喜くんが作ってくれたもの。いきなり兄弟ゲンカの場面からはじまって弟が「兄さんは昔っからそうなんだ!僕のオウムに変な言葉を教えたのも兄さんだったんだね!」という台詞が強烈に印象的。当時からテレビ・ドラマを書きたいと言ってました。このユニークな台詞に現在の片鱗が伺えます。
「正義の力・貧乏パワー」
劇団解散当時、「やっぱ俺たちボンボンはだめだよなぁ、劇団やってくのは貧乏パワーだよ」と僕が言ったところから平光君が発想してコントにしたもの。ちなみに「貧乏パワー!」と叫ぶアクションは「少年ジェット」のミラクル・ボイス「うー・やー・たー!」から来たもので、世代がわかる。
「マルチ時代・バーター全盛期」
タモリさんが「よくやった!」と絶賛。初めての地方ロケで草津温泉の名門ホテル「一井」さんと全面的にタイアップ。郷田君が代理店担当者役で「この後宴会でパーっと!」をエサにロケに干渉、ストーリーが変わってしまうと言うもの。社長さんがシャレのわかる人で自身の役で仲居さん十数人と共に出演、テレビのタイアップの実体を暴いた。ちなみに当時「一井」さんのテレビCMに出てたのは、かつての貴乃花夫妻とまだちっちゃかった若・貴兄弟。
「2泊3日!グアム島PICロケ」
草津ロケの大成功に気をよくして今度はグアム島の会員制リゾートクラブ「P.I.C」と全面タイアップして初の海外遠征。2泊3日のスケジュールで2回放送分プラス・ショートコーナー数本分を撮らなければならないので、まさに僕のAD業務「コウバン表」の見せ場。成田から撮り始め、飛行機の中、グアム空港、PIC行きのバス、着後荷物も置かずに撮り続け、ディナーの模様も撮影、翌日も早朝から夜中まで撮りまくって、ついに3日目は夕方帰国するまで丸一日オフにしたと言うまさに「コウバン表」の勝利。「オフのある海外ロケなんて初めて」とスタッフ全員から感謝された。俺ってタイム・キーパーの才能あるかも?
「秋元康になれなかったよ」
そのグアム・ロケでも撮影したのだが、「ドキュ・パロ」に続けて流すミュージック・ビデオ、怪物オリジナル・ソングを作って番組で流せばCD(当時はレコードか?)発売されるかも、とMVの草分けディレクター・高麗さんが発案。友人のミュージシャンに頼んで多分2~3曲作ったが、うち1曲の作詞に僕、良さん、東君の作家陣が挑戦。「サザンみたいにサビは英語だね」「オー・イエー」「カモン・ベイビー」ぐらいしか浮かばなくて結局不採用。タイムキーパーの才能はあっても作詞家の才能はなかったと言うおそまつ。音楽に強いこだわりを持つ田辺社長が納得しなくてCDリリースまでいかなかったが、この「音楽問題」後に怪物ランド存亡の鍵を握る事となる。
「外苑東通りの狼」
「テレビを壊したい」と言う赤星君の発案でシリーズ化。ジープで赤星君・郷田君が外苑東通りを走り回りながら、現代の様々な風潮に文句をつけ結局テレビ受像器を壊してアタをすると言う理不尽なストーリー。美術の辺見さんが故障したテレビを調達、毎回1台づつ壊していくのだが、赤星曰く「ソニーのテレビは丈夫」。ジープは当時怪物が衣装タイアップをしていた「アーストンボラージュ」のデザイナー、佐藤コウシンさんの自家用車。撮影の間だけ借りてきて、乃木坂と外苑東通りの三角地帯をぐるぐる廻りながら撮っていたのだが、ある時パトカーが来て「君たち毎週ここで撮影してるけど道路使用許可取ってる?」んなもんあるわきゃないけどロケがストップしたら一大事。で、ADさんを人身御供にして警察に出頭、始末書を書いて一件落着。(以後、許可取ってます)
「ラブリー!道をかける少女(当たり前か)」
「ウソップ」後期に設けられた郷田君とゲストとのコーク・コーナー。確か、作家・亀和田武さん、編集者・末井昭さん、女優の城戸真亜子さん、斉藤由貴さん等に出演してもらったが一番印象的だったのが原田知世さん。役得でゲストとの打ち合わせは僕だったが、当時の知世ちゃんはまだ高校生。ブッキングした今野さんが「今日はお掃除当番だから少し遅れるかも」。外で待ってると、制服姿の知世ちゃんが走ってやってきました。いやー、初々しくてホントかわいかったなぁ…。
ここからは「ウソップランド」当時の番組外でのエピソード、これがホントの「番外編」。
「快挙!高視聴率達成」
大体、「ウソップ」の視聴率は平均して3~4%、これでも当時としては驚異的な数字なのだが、二代目プロデューサー・湧口さんはこう言い放った「7%超えたらハワイに連れてってやる」と。どの回だか忘れたが「トゥナイト」の終了間際、炭坑の落盤事故の緊急ニュースが入りその生中継の繋がりで「ウソップ」に突入。結果8%の視聴率達成。ハワイは無理だったが代わりに六本木ロア・ビルにあった「プレイボーイ・クラブ」に連れてってくれました。バーニーガールがホッペの赤いお国なまりのある娘だった事と、メロンの生ハム巻きと高級ウイスキーを死ぬほど飲み食いした事を今でも覚えています。
「挨拶!スネークマン・ショーのドン」
番組がスタートして間もなく、田辺エージェンシーのプロデューサー・立原さんが「同じような事やってんだから、挨拶しとけば」と僕を伴って当時原宿にあった桑原茂一さんのオフィスへ。彼が率いる「スネークマン・ショー」 (メンバーは小林克也、伊部雅刀、YMO、等)はラジオ番組をやっておりカセットやレコードもリリース、「モンティ・パイソン」と並んで僕らのお気に入りだったシュールなギャグ・ユニット。仁義を通しに行った訳だが、桑原さん本人はとても紳士的で優しい人でした。
「感動!早稲田祭のイン・ザ・ムード」
「ウソップ」がスタートして1年後ぐらいの秋、早稲田大学の学園祭に怪物と小雪が招待されてコントをやる事に。当日は昔取った杵柄で僕が音響担当、300人ぐらい入る階段教室の真ん中に陣取ってスタンバイ。 開演時間が来て僕が「ウソップ」のオープニング・テーマ「イン・ザ・ムード」を流した途端、ステージにまだ誰もいないのに観客から大教室を揺るがすようなどよめきと拍手喝采の嵐!隣りにいた良さん、東君と顔を見合わせて「すげぇ~なぁ~!」と作家陣が感動してしまった次第。やっぱテレビの力ってホントすごいよね。
「大儲け!平光君結婚披露パーティー」
「ウソップ」が始まって多分半年後くらいに平光君がかねてより交際中だった劇団「雲」時代からの役者仲間であり魔天楼の芝居にも何度か客演してもらった女優・千種かおるさんと晴れてゴールイン!(赤星君は「ウソップ」スタート以前に結婚、郷田君は平光君の一年後ぐらいに魔天楼のメンバーだった直美さんと結婚)。当時は多分新宿・三越の裏手あたりにあった「新宿ロフト」を借り切って、仲間や番組関係者を集めた披露パーティーをやる事に。幹事は僕、司会は赤星・郷田で多分5千円ぐらいの会費制。ロフトの人が「噂を聞きつけてファンの人もきっと来るから会費とって入れてあげれば」との提案。会場の収容人数は200人は軽く入るのに対し予定される仲間・関係者は約50人。そこでロフトのプログラムに載せてもらい当日表に張り紙だけして蓋を開けてみれば何と超満員の大盛況!魔天楼仲間のパフォーマンスあり、関係各社から供出してもらった自転車やテレビが賞品のビンゴ大会ありでかなり充実した内容だったと思うが、収支決算は十数万円の大黒字。平光君夫妻、僕、赤星・郷田で山分けさせていただきました。ファンの皆さんありがとう!俺って幹事の才能あるかも?
さてここからは、「ウソップランド」終了に至ったちょっとシリアスな話。
番組も2年目を過ぎ誰しもがパワーダウンを感じていた頃、番組制作そのものは石野君もディレクターに昇格してスムーズに進行しておりました。僕個人がこの頃一番感じていたのは御前会議で田辺社長に言われた “続く仕組み”。ここにきて放っておいても番組が続く連続性のあるコーナーなり仕掛けを作って来なかった事が痛切に効いてきました。この頃怪物ランドも他の番組に何本かゲスト出演してましたが、劇団出身のためかアドリブもあまり上手くなく他の出演者との話もイマイチ盛り上がりません。「とんねるず」や「ダチョウ倶楽部」など後発のグループが続々ゴールデンに進出しているのに対して怪物は益々「ウソップ」一点集中型を強めている状況。つまり “守りの姿勢”が目立ってきた訳ですね。そこで僕が高麗さんに「そろそろ怪物もウソップを卒業してよい頃では?」と提案。同様の事を感じていた高麗さんは「確かにパワーダウンしてるけど局はまだ続けろって言ってるしなぁ…」、そこで会議にはかって「視聴者に飽きられないうちに止めちゃった方がカッコイイ」と終了を提案。ついては「怪物も作家陣も次なる展開を考えるため半年は番組タイトルを変えて総集編的な番組をやろう」と。こうして実は最終回の数ヶ月前に「ウソップ」終了は決定していたのです。
半年の執行猶予期間限定番組は「いわばエピローグ的な番組なんだから軽~いタイトルの方がいいんじゃないの」との良さんの提案で肩すかしを食ったようなタイトル「何、ソレ!?」に決定。内容はこれまでの「ドキュ・パロ」に代わって既存の歌をテーマでまとめたミュージカル風あり、これまでのショート・コーナーの焼き直し篇あり、何でもありのスクランブル・コーナー、マッチすりから効果音、お風呂遊び、神経質さやぜいたくさまで何でも競い合う「ザ・格闘技」、それに個人コーナーを加えたまさにゴッタ煮的内容。後釜番組の内容が決まったうえで確信犯的に「ウソップランド」は5回にわたる総集編を放送して、昭和61年(’86)4月16日、第124回をもって最終回を迎えたのでした。
そんな訳で「ウソップランド」最終回の翌週4月23日にはもう新番組「何、ソレ!?」がスタート。始まってみればすでに怪物とスタッフの呼吸が合っているため意外にも洗練された内容。僕ももちろん台本は書いていましたが、ロケや編集・MAに出なくてもよくなったため執行猶予期間をフルに活用してレギュラー番組を一気に拡大、急に忙しくなってきました。ですから特に思い入れのある回はありません。今までがあまりにはまり込んでたのでむしろせいせいした感じさえしました。
「何、ソレ!?」各回の内容については、これも「しんや てれび むかし」に詳しいのでそちらをご覧下さい。
今思えばこの時期、僕が怪物の新番組の企画書をバンバン書いて局なり各制作会社なりに持っていけばよかったのですが、当時はとてもそんな事まで気が回りません。ひたすら新しく付いた番組の会議や構成に追われておりました。怪物もこの時期新しい展開を考えていたはずですが、一体それをどういうルートで提案したらいいのかわからない状態だったようです。
後釜番組「何、ソレ!?」は、予定通り昭和61年(’86)9月24日、第23回の総集編で終了。
しかしこれが、怪物ランドとテレビとの短い蜜月時代の終わりだったとはこの時誰一人として知る由もなかったのです。と、いつものフレーズで決めて、ですがそれはまた次の話としましょう。
次回は、いよいよ最終章に突入!
番組終了後、怪物たちを待ち受けていたのは果たして天国か、地獄か!?どうする!どうなる!平光君? 怪物ランドの明日はどっちだ!?風雲急を告げる最終章「怪物ランド・サーガ・エピソード⑤」!
近日公開!乞うご期待!!
石塚千明が語る 魔天楼サーガ その3
第三弾の前に、現時点で平光君本人から指摘された補足・訂正事項。 劇団「色鉛筆」が小田原市民会館で行ったミュージカル公演のタイトルは「グッド楽苦(ラック)」。この時何と、小田高演劇部の後輩として郷田ほづみ君も出演していたとの事です。 (知らなかったなぁ) あと、つかこうへい時代の劇団「魔天楼」公演で、「生涯」をのぞいて「郵便屋さん、ちょっと」「熱海殺人事件」においては平光君も出演していたそうです。(僕の記憶もあてにならないなぁ、どうも ごめんなさい) ********************************************************************************** さて、第三弾は「魔天楼」時代が終わった後からなので、ここからは「怪物ランド・サーガ」となります。 私の記憶が確かならば…(全然確かじゃないのは明らかですが)新たなサーガの始まりは、時あたかも昭和57年(’82年)夏。 舞台は、池袋や新宿の小劇場から、六本木へと移ります。この頃、六本木や新宿の盛り場を中心に、いわゆる「ショー・パブ」が続々と登場し始めます。 その草分け的存在ともいえるのが六本木の「バナナ・パワー」。劇団活動休止を余儀なくされた平光君の動きは実に迅速でした。この「バナナ・パワー」のオープンに合わせて、早くもそのステージで行われるコントの仕事を見つけて来て、当時バイト等で生計を立てていた劇団仲間に声を掛けたのです。こうして「怪物ランド」の元となるコント・グループが結成されたのでした。 オープン当時の「バナナ・パワー」のシステムは、約二時間の入れ替え制。客は、多分二千円ぐらいのフリー・ドリンク・チケットを買って中に入ると、大きなテーブルにベンチ型のシート、奥に鏡張りの小さなステージ。 水割りなどを飲んでると(入った時点で客はすべて酔っぱらい)、やがてステージに3~5人のコント・グループが登場して15分ぐらいのコントを披露。コントの内容は演劇的でシュールだし、客は酔っぱらっているしで、ほとんどウケない。 コント終わってまたしばらく飲んでると、大音量で歪んだダンス・ミュージックとミラー・ボールの回転と共に、外人の男性ストリッパーが登場。自分で考えたいい加減な振り付けで踊って、ビキニ・パンツ一丁になったら、客席を廻って女の客をキャーキャーいわせ、パンツに千円札など挟んでもらってストリップ終了。すると、従業員が直径15センチぐらいのパイ生地の上にクリームを乗せただけのパイを一枚確か500円ぐらいで客に売って廻る。ステージには、水中メガネやゴーグルをかけたコント・メンバーと男性ストリッパーがパイ投げの的(まと)としてラインナップ。客は、彼らの顔めがけてパイを投げるが、酔っぱらっているし的の方もよけるしで、あんまり当たらない。これで、一回分のショー・タイム終了。(もしかしたら、コントは2ネタやってたかも)このショー・タイムが夕方から深夜まで、3~4回にわたって繰り返されます。 まさに当時の世相を伺わせる、阿鼻叫喚、酒池肉林の宴が夜ごと展開したのでした。 この「バナナ・パワー」に出演しはじめた当時は、まだ「怪物ランド」と名乗っていないはずです。お店の看板には、コント・グループの名前が載っていたので、多分、当時は「怪物ファミリー」といっていたのかもしれません。 そのメンバーも、平光君を中心に、赤星君、郷田君、それに、劇団仲間から高野寛、矢尾一樹、演劇集団「円」の後輩である石田登星(後の「ウソップ・ランド」初期にも出演)なども時折加わっていたような気がします。 ともあれ、当初は劇団「魔天楼」時代の芝居のギャグ部分をふくらませていくつかのコントに仕立てていたのですが、客は酔っぱらいなので小難しいギャグは通用せず受けるのはやっぱり下ネタ、酔っぱらいの割には意外とリピーターも多かったため、次々と新しいコントを作っていかなければならない状況に追い込まれていったのでした。劇団時代と違って、今や生活がかかっているので止めるわけにはいきません。 こんな状況の中、平光君がベースの台本を書き、赤星君、郷田君と稽古しながらまとめていった新作コントの数々が、「怪物ランド」というコント・グループのキャラクター・イメージを作り、後の「お笑いスター誕生」でグランプリをもたらし、さらに「ウソップ・ランド」のベースとなっていったのでした。 この時作った新作コントを、後の「お笑いスター誕生」出演時の資料(「怪物ランドの生涯」)を元にざっと挙げてみると… 「怪物くんコントPART1」、「英語劇」、「ネズミの軍隊」、「E.T(板垣退助)」、「怪物くんコントPART2」、「新撰組」、「ゲゲゲの鬼太郎」、「迷信家族」、「ロボットストーリー」、「仮名手本忍者村」~等々。 厳密にいえば、「お笑いスター誕生」出演時のコントはTV番組という制約上、「バナナ・パワー」時代に作ったコントをベースにほとんどが作り直した新作。(後に形を変えて「ウソップ・ランド」でやる「精子くんコント」はバナナ・パワー時代の傑作ですが、TVの制約上、「お笑いスタ誕」ではやらなかったようです。)とはいえ、個々のコントの台詞まわしや筋立ては、「バナナ・パワー」時のコントを一度解体して、組み立て直した、いわば、アップグレード・ヴァージョンと言えます。 さらにいえば、部分々々の会話やシチュエーションは、劇団「魔天楼」時代の芝居から手を変え品を変えて、引き継いできたものも随所にありました。平光君は昔からこのアレンジというかヴァージョン・アップが実に巧みで驚かされます。 何といっても「新撰組」ネタなんて、劇団時代に3回公演、「バナナ・パワー」から「お笑いスター誕生」をへて「ウソップ・ランド」まで引っ張っているんですから、まさに不滅のネタといわなければなりません。 ともあれ「バナナ・パワー」時代に酔っぱらいの客から少しでも笑いを取ろうと作ったコントには、他のコント・グループにはない「怪物ランド」独自の特長が明確に表れています。 それは、「家族」、「軍隊」といった明確なシチュエーション設定、あるいは「怪物くん」、「アトム」、「鬼太郎」、「忍者」といった我々の世代なら誰でも知ってるキャラクター設定、さらに「ネズミ」、「精子くん」といった擬人化したキャラクター設定など、一言でいえばまさに「演劇的」。事実、「お笑いスタ誕」の時はもちろん、「バナナ・パワー」のステージの時も可能なかぎりそれぞれのキャラクターの「衣装」をつけ、髭やかつらなどで「メーキャップ」をし、時には高野、矢尾、石田などが代役を務める「ダブル・キャスト」でステージに臨んでいました。 つまり、彼らはあくまで「役者」としてキャラクターを演じていたのであり、「バナナ・パワー」でのコントは彼らにとって「舞台公演」なのであり、したがって「怪物ランド」というのはコント・グループではなく、「劇団」だったのです。 こんな風に書くと、改めて言われるまでもないと思われるでしょうが、当時マスコミで活躍していたコント・グループは「~トリオ」といった寄席の演芸グループか、「ドンキー・カルテット」や「ドリフターズ」など音楽バンドをベースにしたグループばかりでした。 「怪物ランド」以降、「ダチョウ倶楽部」や「ウッちゃん・ナンちゃん」といった演劇畑出身のコント・グループが続々と登場したのです。また、同じ時期に登場した「コント赤信号」は、渋谷・道玄坂の「道頓堀劇場」というストリップ劇場で幕間コントをやっていたので状況は似ていますが、彼らは明治大学の落語研究会出身なので演劇畑とは少しニュアンスが違います。この演劇畑出身、いいかえれば「役者根性」が良くも悪くも「怪物ランド」の独自性を決定づけていたのであり、コントはもとより彼らの考え方や行動の基本となっていたのです。 しかし、この「バナナ・パワー」時代はそんな悠長な自己分析をやっている暇もなく、日々のステージをこなしていかなければなりません。 僕が見ていて一番つらかったのは、やっぱり最後のパイ投げ。何度もいうようですが、客は酔っぱらい、わざと的(まと)の目の前までいって顔になすりつける奴はいるは、パイの換わりに灰皿を投げる奴はいるはで、仕事の一部とはいえ「役者」にはつらかったに違いありません。赤星君なんか時々キレて客とケンカしてましたしね。楽しかったことといえば、人間関係の環が広がった事。特に外人・男性ストリッパーはほとんどが素人で、中には教え子の男子生徒に手を出してクビになったサンフランシスコの元高校教師とか、どっから連れてくるんだよっていうしょーもない不良外人もいたりしました。また、当時続々と登場したショー・パブ同士の交流もあったようで、怪物ファミリー(?)も時々、新宿の「ギャルソン・パブ」とか「黒鳥の湖」とかにゲスト出演していたと思います。 そして、何と言ってもこの「バナナ・パワー」時代の最大の成果がマスコミの取材。 ショー・パブが風俗産業の最先端をいっていた時代だけに、雑誌やテレビの取材がかなりあったようです。テレビの取材といっても、ほとんどが「トゥナイト」などのナイト・ショーで、お目当ては男性ストリップとパイ投げでしたから、彼らのコントが大きくクローズ・アップされた訳ではありません。が、客の中には六本木という土地柄マスコミ関係者も多く、そんな中のある業界人が彼らのコントに眼を付けたのでした。 当時はMANZAIブームの後をうけ、テレビ業界が新しいお笑いタレントの発掘に躍起となっていた時代。日本テレビでは「お笑いスター誕生」が、テレビ朝日では「テレビ演芸」(正式タイトル忘れた)が盛んにお笑い新人を捜していました。そう、彼らのコントに眼を付けた人こそ、その「お笑いスタ誕」のプロデューサー(あるいはスタッフ)だったのです。その人は言ったそうです。 「君らだったら、うちの番組でかならず5週は勝ち残れる!」 この言葉が悪魔のささやきに聞こえたか、天使の呼び声に聞こえたかは今となっては知るよしもありませんが、彼らにとって大きなチャンスであることには間違いありません。 演劇を取るかコントを取るか、役者を取るかタレントを取るかといった大問題は棚に上げておいて、「取りあえず出てみんべぇよ」(小田原弁)となったのです、多分。 時あたかも昭和57年(’82)年末、もしくは昭和58年(’83)初頭の大決断でありました。 以下、TV出演時の字数の制約からグループ名を「怪物ランド」に決定。これは、「バナナ・パワー」の怪物くんコントが割と受けてたのですんなり決まったようです。メンバーもそれまでの流れから平光、赤星、郷田の三名に固定。これは平光君の頭の中では、あくまで「お笑いスタ誕」出演時に限っての一時的な「劇団」の形だと考えていたようです。 なにはともあれここに、本当の意味での「怪物ランド」が誕生したのでした。 「怪物ランド」の初舞台、否、初オン・エアーは昭和58年(’83)2月26日、「お笑いスタ誕」の第三期グランプリ・シリーズでありました。 以下、「お笑いスタ誕」10週ストレート勝ち抜きの経緯や各回のコント内容は、漂泊旦那さんの漂流世界内「お笑いスター誕生!!の世界を漂う」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1901/star.html) に、やった本人や関係者が忘れてしまったディテールまで含めて大変詳細に掲載されているので、そちらをご覧下さい。 (信じられないほど詳しいので、平光君も僕も驚いています。) 僕の記憶している舞台裏を少し付け足すなら…。 確か、収録場所は代々木の「山野愛子ホール」だったような気がします。多分、一回の公開収録で2回放送分を撮っていたと思います。司会は、今は亡き山田康夫さん(ルパン三世やクリント・イーストウッドの声優で有名)と、ベテラン歌手の中尾ミエさん。審査員は京唄子さん鳳啓介さん、赤塚不二夫さん、他、ゲスト審査員。(ちがったかな?) ステージに出る数日前に、日テレのリハーサル室でいわゆる「ネタ見せ会」が行われてました。 この「ネタ見せ会」は、番組の演出をしていた赤尾さん(制作会社「日企」の偉い人)に、次の収録でやるネタを見てもらい、アドバイスをうけるというもの。その時点で勝ち残っている出場者はもちろん、これから出場しようという者も含めて全員が立ち会うのでかなり緊張した空気が漂ってました。もちろん、本番時の勝ち負けは審査員の判断が全て。デキ・レースっぽい所は一切ありませんでした。 ちなみに、僕の記憶している同時期の出場者といえば…。 まず「象さんのポット」、これは平光君にいわせれば「立ち話コント」の二人組。 今で言えば「よゐこ」のようなものすごく低~いテンションで会話してそれがとても新鮮でしたが、時代が早すぎたのか、グランプリには至らなかったと思います。 次に「ぶるーたす」、これは今で言えば「なかやまきんにくん」に当たる一人芸。マッチョ・ポーズをとりながらギャグを言うスタイルで、確か日芸演劇学科の後輩だったと思います。 そして「小柳トム」、今のブラザー・トムさんですが、当時はピンでやってました。おまわりさんコントやピアノの弾き語りコントが有名でした。 さらに「シティー・ボーイズ」は、怪物ランド以前に番組に出場してたと思いますが、何週かで敗退。怪物以後の挑戦でグランプリを獲得したと思います。劇団「暫」時代からこの「お笑いスタ誕」に至るまで、怪物ランドの先輩格であり良きライバルでもありました。 こうして、「怪物ランド」はあれよあれよという間に勝つ進み、ついに10週目、グランプリを賭けたステージをむかえたのです。もっとも、本人たちに言わせるとこの10週は、バイトもできず次にやるネタの稽古に明け暮れていた大変な時期だったようです。 10週目のステージは、昔の劇団仲間たちとタレ幕などを用意して見に行ったので、僕もよく覚えています。この時の「仮名手本忍者村」は、まったく新しく作ったネタ。歌舞伎で使う波幕を使ったものすごくテンポの早いコントで、一気にオチの大魔神まで畳みかけます。コントが終わった瞬間、会場から沸き上がった盛大な拍手喝采は30秒ぐらい鳴り止みませんでした。どんなにシビアな審査員でも、これは合格にせざるを得ない熱気に会場全体が包まれていたのです。 もちろん結果は、見事10週ストレートで勝ち抜け、グランプリ獲得!正直いって僕もちょっと泣きました。 時あたかも、昭和58年(’83)、多分5月の快挙でありました、嗚呼…。 蛇足ではありますがこの時期の僕は、彼らとは別の仕事で糊口をしのいでいました。 友達のよしみで、「バナナ・パワー」や「お笑いスタ誕」の収録、「ネタ見せ会」にも頻繁に行ってアドバイス等していたものの、それは僕にとって1円のお金にもなりません。 劇団時代、ホームグラウンドとしていた「池袋シアター・グリーン」で、当時はもう経営陣(といっても2~3人)の一人となっていた高沢良則君(後に怪物ランド公演のプロデューサーを務める)のオファーで、シアター・グリーンのプロデュースと劇場管理の仕事をしていたのです。昔から「シアター・グリーン」では、7月~8月と1月~2月にかけて劇場プロデュースの「サマー・フェスティバル」と「ウィンター・フェスティバル」を開催していました。劇場プロデュースといっても、8~10劇団を集め、その連続公演通しチケット・ポスター・チラシを劇場側が負担するというもので、劇場使用料などは通常とほぼ同じ。ですが、伸び盛りの劇団にとっては通しチケットで他の劇団の客を奪い取れるというメリットがあります。劇団「魔天楼」時代の公演の多くは、このフェスティバルに参加して観客動員を伸ばしてきたのでした。が、劇場側に立ってみると、この8~10劇団を集めるのが大変な仕事。あの手この手で若手劇団に呼びかけ、劇団ごとの諸問題、例えば、照明や音響の裏方がいない、等の問題をサポートしてあげなければなりません。幸い、当時の人脈のおかげもあって、かなり有望な劇団を集めることが出来ました。 ちなみに、この時期、「シアター・グリーン」で公演を打っていた劇団には…。 (必ずしもフェスティバル参加ではなく、単独公演の場合もありましたが) 渡辺えり子率いる「劇団300(さんじゅうまる)」、三宅裕司率いる「スーパー・エキセントリック・シアター」、鴻上尚史率いる「第三舞台」、全員女性だけの劇団「青い鳥」など、そうそうたる劇団が名前を連ねていました。 今にして思えば、もう少し頑張って劇団活動を続けていれば我々「魔天楼」も何とかなったかもしれませんが、最早、あとの祭り。 そんな中で、今や誰も覚えていないが僕にとっては忘れられない劇団があります。それが「ヒーローキャリー」。女子高を卒業したばかりの同級生の女の子9人組です。 最初、彼女たちは揃って僕の所に相談にきました。高校の文化祭で上演したオリジナル・ミュージカルが好評なので、何とか外の劇場で公演できないものか、と。客は手売りで集められるが舞台制作に関してはまったくわからない、と。素人のミュージカルではあるが、仲良し9人組の青春の思い出にしたい、と。全員がカワイイという訳ではありませんが、何といっても平均年齢18歳のピチピチ・ギャル(表現古いなぁ)の頼み、若干のスケベ心も手伝ってそんじゃぁ、僕が一肌脱ぎましょうという事になったのです。実際には、照明を吊り、音響を仕込み、舞台セットを即席で作り、オペレーターもタダでやって、二肌も三肌も脱ぐ事になったのですが、ともかく無事、本番をむかえることができました。この本番の舞台に、以前からミュージカル大好きだった前出の北原葉子を呼んで見せた所、大変気に入って、翌日には音楽事務所の社長さんも連れて見に来ました。そして、公演最終日にはもうプロ・デビューの話にまで進んでいました。 彼女たちもまだ高校を卒業したばかり、取りあえず1年間はやってみようという事になったようです。すぐさま、ミュージカルの中で作ったオリジナル曲を中心に、アルバム(LP)のレコーディング。そのLPと同時にシングル・カットされた「恋のティーン・エイジ・ブギ」という曲でデビューすることとなったのです。このデビューにあたって、発掘者ともいうべき僕に、北原と音楽事務所の社長さんからオファーがありました。つまり、「ヒーローキャリー」のプロモーションを手伝ってくれ、と。 僕の仕事は、いわゆる有線局まわりにレコード会社の人と組んで付き添ったり、ミュージカル公演の全国ツァー(結構全国各地を廻りました)に演出兼舞台監督兼音響として随行したりと、色々。 その中でも、後に一番役立ったのが放送用の台本書きでした。彼女たちがテレビやラジオに出演する時必ずといっていい程演出側から出てくるのが、ミュージカル・グループなんだからちょっとミュージカル風の一場面を演じてから歌に入りたい、というもの。そんな依頼がある度に、僕が彼女たちのオリジナル・ミュージカルを大幅にアレンジしてその番組に合ったショート・ミュージカルに仕立てていました。記憶しているだけでも、ラジオ・テレビ合わせて5~6本の台本は書いているので、部分的ではありますが、これが実質的な僕の放送作家としてのデビューということになります。 結局、デビュー時から3~4ヶ月間は結構色々な仕事に追われていましたが、それを過ぎると急に暇になってしまったのでその時点で僕はこの仕事から身を引きます。また、彼女たちもアルバム1枚、シングル3~4枚をリリースしたもののこれといったビッグ・ヒットには至らず、結局1年間で普通の女の子に戻ったようです。 僕にとっては結果的に、この仕事が後に本格デビューする事になるTV構成作家のまたとない予行演習となった訳ですが、この時はまだ知るよしもなかったのでした。 そしてこの事は、同じ時期の「怪物ランド」にもあてはまります。 「お笑いスタ誕」グランプリ獲得が何をもたらす事になるか、彼らはまだ知るよしもなかったのです。 「怪物ランド」を祝福する満場の拍手喝采は、新たな歴史のイントロにすぎなかった!そう、メジャー・デビューに向けた新たな怪物ランド・サーガが、ここに幕を開けようとしていたのでした。が、それはまた、次の話としましょう。 (怪物ランド・サーガその③・完、その④に続く) |
石塚千明が語る 魔天楼サーガ その2
まず、昭和53年(’78年)5月、4週末連続でおこなった「魔天楼フェスティバル」の補足事項から。この時から、赤星の妹の同級生だという事で矢尾一樹(後に声優として活躍)が劇団に参加。また、岸田、佐田野、(名前忘れた)という慶大生も入団しています。
また、特筆すべきは、4本各演目の芝居が終わったあと、必ず次ぎの演目の予告編を8ミリ・フィルムで上映していた事。予告編の内容は例えば「大脱走」だったら、軍服に身を固めた劇団員がジープで小田原の海岸を走り回ったり、手榴弾を投げたと思ったらドタ靴だったりとしょーもない内容。間に手書きのスーパーで「鉄条網の向こうに自由がある!」「公開迫る!乞うご期待!」とか入る。一本につき3分間ぐらいで、もちろん、僕が監督・撮影・編集・録音。なぜ、特筆なのかというと、郷田が全部のナレーションをやった事。おそらく、不特定多数の人に向けた郷田のナレーションはこれが初めてだったと思います。もうひとつ、後に「ウソップランド」後半部分の定番コーナーとなる予告編パロディーシリーズのルーツは、間違いなくここから生まれています。実際この時も、単なるシャレで作ったのに予想外にうけて、「ぴあ」の人からは「この予告編だけでいいから、PFF(ぴあ・フィルムフェスティバル)に出したら?」といってました。もちろん現在はフィルムの跡形も残っていません。
この年(’78年)秋、多分、稽古中暑かったから公演時は9月。
●「魔天楼の大都会~東京の青い空~」
場所:池袋シアター・グリーンで多分5日間くらいの公演。
作・演出:平光琢也
出演:高野、赤星、郷田、矢尾、他、魔天楼オールスターキャスト。
何とこの時、魔天楼芝居では多分初めて、平光本人が出演。(役柄はアルバイトのケンちゃん役)
内容:コン・タロウの読み切り漫画をベースに大胆にアレンジ。舞台は、核戦争後の近未来の東京。放射能に汚染された地上を逃れ人々は地下都市でひっそりと暮らしていた。そんな時、放射能の恐ろしさを知らない少年・少女3人が「青い空が見たい」と地上を目指して旅立った。
それを阻止しようとする警察と少年・少女たちの道行きをカットバック手法で描いた感動のSFスペクタクル巨編!…ってな感じかな?
これは、タイトルを「ブルー・スカイ」と変えて、確か翌年(’79年)の2月か3月に同じシアターグリーンで再演したと思います。
魔天楼役者初出演が受けて、平光は役者づきます。
この年(’78年)の冬、確か11月下旬か12月上旬、ついに平光を主役に据えて上演したのが、
●「魔天楼の真夜中のパーティー’78」
作・演出:ちあき由宇
場所:池袋シアター・グリーンで、多分5日間くらいの公演。
出演:平光、赤星、郷田、矢尾、杉政、橋本、他オールスターキャスト
内容:ウィリアム・フリードキン監督のカルト映画で知られるが、元はオフ・ブロードウェイの舞台劇。日本で最初に公演した俳優座の台本を入手したが使い物にならないので、エチュード形式で即興劇の稽古をしながら再構成。ダンスやコントを織り交ぜながらも人間の孤独感を見据えた重厚なドラマに仕立てあげた。…って感じ。
当時はまだ、オカマやホモといった存在が市民権を得ていない時代。一学生劇団としては、大胆な試みだったが、公演当日は本物のオカマさんたちが多数来場。プレゼントを貰ったり楽屋に押し掛けられたりで、二の線の役者たちは貞操に危機にさらされた。(残念ながら劇団員は全員、ノーマルでストレート)
実は、この公演が「魔天楼」時代を思い出す時、僕にとって最大の道標であり、冒頭に書いた年号の間違いに気づくきっかけになったのもこの公演です。何故なら、タイトルに’78と入れたから。この公演終了後、まだ日芸に在学中だった劇団員は一致協力して卒業試験を突破。(ま、身代わりで試験を受けたりして)平光、僕、高野、石川、等(赤星はとっくの昔、1年ぐらいで中退)は、翌昭和54年(’79年)3月、無事、日芸を卒業したのでした。(5年生か6年生なので無事でもないか)この年、昭和54年(’79年)、2月か3月、「大都会」を「ブルー・スカイ」に変えて再演した後、未だほとんどの劇団員が就職もしないままアルバイトをしながら劇団活動を続けていたのも、ひとえに当時の「魔天楼」に勢いがあったからでしょう。
(管理人注:第2回目の原稿を頂いた折、『第1回目の「魔天楼」サーガのエピソード③の冒頭、公演記録「エレナ~」以降の昭和年号や西暦年号から全て1年引いて、繰り下げてください。エピソード②最後の浅草・木馬館公演「生涯」は、昭和51年(’76年)の冬(多分、2月頃)で、それから1年以上間があいたはずはないので、初のオリジナル戯曲「エレナ~芸能界はつらいよ~」の公演は、昭和51年(’76年)の秋が正しいと気づきました。年号の間違いに気づいたもう一つの理由は後述します。』と、メールを頂きましたので訂正してあります。)
当時は、野田秀樹が率いる「夢の遊眠社」が活動を始めたばかり。人気の学生劇団として、東大の「遊眠社」・日大の「魔天楼」といわれた事もありました。いかんせん、東大VS日大の頭脳の差はその後が雄弁に物語っていますが…。
それはさておき、人気とともに芝居の方も次第に高度なものとなってゆきます。その次なる公演とは?
昭和54年(’79年)7月か8月
●「湘南綺譚」(しょうなんきだん)
作・演出:ちあき由宇
場所:池袋シアター・グリーンで、多分5~6日間
出演:赤星、郷田、矢尾、杉政、岸田、橋本、他オールスターキャスト
前回の「ブルー・スカイ」と今回にかけ、平光琢也君の弟、哲也君が役者として出ています。
内容:前年あたりからその傾向はあったものの、ここへ来て一気にシュールな幻想劇に。舞台は様々な時代が渾然一体となった亜空間的な湘南海岸。曾我兄弟や伝説のサーファーたちが跳梁跋扈するこの空間に、死んだ母の魂に導かれるように、クニオとそのドッペルゲンガー、オニクがやってくる。ありえない瞼の母との再会。そして、母の記憶の中の湘南海岸にやがて伝説の大波が押し寄せる…。
と、こう書いても何が何だかわからないでしょうが、ルーツたる湘南海岸に根ざし、ちあき独自のダーク・ファンタジー・ワールドを展開した記念碑的作品だと自負しております。後にサザンが歌った「愛の言霊」を聴いた時、まさにこんなイメージ!あの時この歌を出ていたらなぁ、と思ったものでした。
この頃になると、1公演およそ6日間10ステージで観客動員数は2000人に届く勢い。当時の若手小劇団がマスコミに取り上げられる動員数のベースが3000人といわれてましたから、芝居で飯が食えるのもそう遠くはないと、おろかにも錯覚していました。そんな若気の錯覚パワーを結集して「魔天楼」初の全国公演ツアーとなったのが!? (といっても、4カ所ほどですが)
昭和54年(’79)12月または昭和55年(’80)1月
●「魔天楼のスーパーマン」
作・演出:平光琢也
場所:池袋シアター・グリーン
出演:高野、赤星、郷田、岸田、橋本、他オールスターキャスト
この時、後に平光の妻となる千種かおるさんが客演。
内容:舞台は現代の日本。地上30センチの高さしか飛べないダメなスーパーマン一家の物語。祖父、父、長男と三代にわたってたいした活躍もしてないため、すっかり自信喪失して市井の片隅でひっそり暮らすこの一家が、亡き母の霊に叱咤激励されて、自信を取り戻すというストーリー。テーマは“自分の中にあるエネルギーを信じれば、空だって飛べる”というもの。この内宇宙のエネルギーというテーマ性は、後の平光・作の芝居に引き継がれている。
この公演を僕は、魔天楼時代の平光君の最高傑作と思っているが、何よりも評価すべきなのは、平光の演出力。劇団員の能力を適材適所に生かした演出で非常に完成度の高い作品となった。
また、この頃になると、スタッフ陣の大部分が卒業して就職したため、照明と美術セットは年上のプロにお願いしていた。(音響は、全魔天楼公演僕が担当)
この事が、後にわざわいを招くこととなる。ともあれ、公演は大成功をおさめ各地の呼び屋さんからのオファーもあって、この年昭和55年(’80)春から秋にかけて、「スーパーマン」をひっさげての全国ツアーとなる。
以下、順序は多少前後しているかもしれないがざっと挙げると。
●昭和55年4月か5月
場所:小田原市民会館・大ホール
これは、小田原で呼び屋をしている後輩のオファーで実現したもの。確か1日のみの公演だったと思う。
●昭和55年9月
場所:京都・青年芸術会館(名前は不確か。同志社大学の近く)
大阪・阪急ファイブ「オレンジ・ルーム」
両方とも地元の呼び屋さんのオファーによるもの。京都では1日2ステージ、大阪では2日3ステージの公演だったと思う。
●昭和55年10月
場所:法政大学・学生会館ホール
確か学園祭のイベントとして呼ばれたんだと思います。2日で4ステージくらいやったのかな。
この後、平光君は体調を崩してしばらく劇団活動から退きます。また、これを機に長年のベース基地だった池袋シアター・グリーンを後にします。劇団自体は登り調子であり、前出のプロの照明屋さん(現在も業界にいると思うので名前は秘す)の斡旋もあって、当時の小劇場の牙城「渋谷ジャンジャン」への進出を果たします。
昭和55年12月(多分)
●「ナルニア国物語~ぜんまい仕掛けのフェアリーテール~」
作・演出:ちあき由宇
場所:渋谷ジャンジャンで4日間ぐらいの5~6ステージ
出演:高野、赤星、郷田、矢尾、杉政、橋本、岸田、他オールキャスト。
内容:舞台は場末の潰れかかった映画館。夜な夜な映画の登場人物に魅入られ 同一化してしまったおかしな映画マニアたちが集まってくる。そこに、死んだ夫を捜し求めるさらにトチ狂った女が迷い込んできて、映画マニアたちの幻想が破られる。“果たして自分は何者なのか!?”各登場人物必死のアイデンティティーさがしの末、ラストにはとんでもないドンデン返しが待ち受けていた。
僕の作・演出したものの中では、最も完成度の高い作品。事実、ジャンジャンの1回の動員数の記録を破って、楽日には1回で360人を収容。(定員180人程だから倍)大盛況を博したのだが…。
渋谷ジャンジャンでおこなわれる全イベントはジャンジャンのプロデュースによるもの。
ジャンジャンと魔天楼の仲立ちをした前出のプロの照明屋さんが、この公演の収益金をすべて持ち逃げ。長年、タダで借りていた田端の稽古場からも追い立てをくらい、劇団活動は休止を余儀なくされたのでした。
この窮状を救ったのが、この時すでに音楽事務所に就職していた制作スタッフ、北原葉子だったのです。彼女は、音楽事務所社長の支援を得て、長年の夢だった小劇場「スペースDEN」を新宿・ゴールデン街の奥にオープン。定員100人ほどのごく小さなスペースでしたが、そのオープニング公演を平光君と「魔天楼」に依頼したのでした。
この平光君と「魔天楼」という所がミソ。これが、後に「魔天楼」の解散を招く結果になろうとは、その時誰一人として知るよしもなかったのです…。
ま、ぶっちゃけた話、音楽事務所の経営戦略上、オープニング・プロデュース公演の演出にのみ、平光君をフィーチャーした訳です。その後、オープニング公演の第二弾として劇団「魔天楼」のロングラン公演が行われましたが、まずは、第一弾から。
昭和56年(’81)9月1日~9月30日
●「薔薇タバコの日々」
作:津川 泉 (当時、FMなどでドラマを書いていたプロの放送作家)
演出:平光琢也
場所:新宿「スペースDEN」
出演:よしえ(苗字忘れた。売りだそうとしていた女優兼タレントの卵)
高野が客演した他、演劇集団「円」の平光の友人たちが脇を固めた。
内容:よく覚えていませんが、ちょっと幻想的なラブ・ストーリーだったような…?プロデュース公演の制約から意にそぐわないダンスや唄を織り込みながら、平光君の悪戦苦闘ぶりがうかがえる労作に仕上がったと、僕は評価しています。
さて、これに続いて行われたのが「魔天楼」初のロングラン公演。プロデュース公演とはいえ、劇場使用料がタダでもチケットはすべて手売りでした。
昭和56年(’81)10月1日~10月31日
●「夜は千の眼を持つ~メタモルフォセス・ホテル~」
作・演出:ちあき由宇
場所:新宿「スペースDEN」
出演:赤星、郷田、矢尾、杉政、岸田、橋本、他オールスターキャスト
内容:舞台はいつの時代どこの国とも知れぬ超高層ホテル最上階の回転するレストラン・ラウンジ。ここに迷い込んできた老婆の強力な思念にウェイターや従業員、ホテルの宿泊客達が巻き込まれ、ラウンジの回転とともに老婆の“記憶の世界”が展開する。「千夜一夜物語」から続く、僕のダーク・ファンタジー・ワールドの集大成的作品。
公演としては一ヶ月のロングランという事もあって、2000人を突破する大成功。だが、この公演を最後に劇団「魔天楼」は分裂・解散する事になったのです。
以前から、収益金持ち逃げ事件や稽古場撤去事件の緊急事態にまったくノータッチだった事に加えて、劇団とはまったく別にプロデュース公演に参加したことから、劇団員の座長・平光君にたいする憤懣がここにきて爆発。その劇団員に突き上げられる形で「夜は千の眼を持つ」公演中、僕と平光と劇団員が何度か話し合った末、劇団「魔天楼」は解散、以後、平光および僕がそれぞれ別の劇団を結成。各劇団員はそれぞれの判断でどちらかに所属する事になったのです。
こうして、昭和50年に始まる劇団「魔天楼」は、昭和56年10月31日の公演を持って7年にわたる栄光の歴史の幕を閉じたのでした。合掌。
以上が、「魔天楼」サーガ・エピソード③の顛末です。それからの1年間は、いわば最終章・エピローグです。ざっと、片付けましょう。
解散直後、その年(昭和56年)のうちに、平光君は劇団「あかつき騎士団」を結成。
この「あかつき騎士団」には、高野、赤星、北村、矢尾などが所属。 一方、僕は劇団「銀河ステーション」を結成。「銀河ステーション」には、郷田、岸田、橋本、杉政などが所属します。
明けて昭和57年(’82)1月から7月ぐらいまでの内に、「あかつき騎士団」は、新宿「スペースDEN」で平光作・演出のオリジナル作品を2本ぐらい(両方ともタイトルは不明)、「銀河ステーション」は古巣の池袋「シアター・グリーン」で、ちあき由宇作・演出のオリジナル作品を2本、石川雅史作の作品を1本(タイトルはちあき作「メランコリア」「人形愛序説」、石川作「コルクの部屋」)を上演したものの、戦力が半減した状態では観客動員も伸びるはずはありません。
大学卒業からはや3年、お金の必要も出てきて、「あかつき騎士団」「銀河ステーション」は共に、活動休止、事実上の解散となったのでした。
今にして思えば、劇団「魔天楼」は平光や僕にとって、まさに青春そのものでした。がしかし、「魔天楼」時代の成果はコントのテーマやモチーフとして「怪物ランド」と「ウソップランド」に受け継がれてゆきます。
「魔天楼」時代の終焉は、同時に新たなサーガの始まり。ですが、それはまた、次の話としましょう。
石塚千明が語る 魔天楼サーガ その1
まず始めに申し上げておきたいのは、現在僕の手元にあるのは、平光君が書いた本「怪物ランドの生涯」と番組の台本約12本を編集者がまとめたテレビ本「ウソップランド」と番組オンエアチェックのVHSテープが2~3本、怪物ランドプロデュース公演「セクソフィー」「フェロモン」「ドミネーション」を僕が撮影したVHSテープ3本、これのみです。公演のチラシ、パンフ等は一切ありません。劇団時代の台本もなにも残っていない状態です。 従って、頭の中に残っているかすかな記憶をたよりに書いていくしかありません。公演タイトルなどはほとんど覚えていないので、当時の交友関係の覚え書きと思ってください。 まずは、古い順から劇団「色鉛筆」について。 (文中―の人は後々関係してくる人です。また、文中時々、敬称略。文責は全て石塚千明にあります。) そもそも僕と平光君との交友は、神奈川県立小田原高校時代に始まります。同級生ですが個人的なつきあいはクラブ活動を通して友人になりました。僕も平光君も小田原市内の別の中学校から、(平光君は中学3年の時、岐阜から小田原市立城山中学に転校、 僕は小田原市立橘中学校)昭和45年(’70年)に小田原高校に入学。 僕は高校2年の時、映画部(8ミリで幼稚な劇映画を作る映画製作部)の部長に。部室がすぐ隣だった演劇部に平光君がいました。 ちなみに演劇部の部長は、僕と幼稚園から高校までいっしょだった椎野保之君(のちに青学に進学)でした。この椎野君とのつきあいで演劇部の公演には、僕が音響や照明などの裏方を手伝い、それを通して平光君と出会ったのです。高校3年の時には、平光君主演で僕が脚本・監督した8ミリの劇映画「何故」(なにゆえ)を作っています。 (内容は恐ろしく幼稚なラブストーリーでしたが、一応、カラー・アフレコによるトーキー・40分ぐらいの作品です。) また同じ頃、平光君は演劇部の公演で安部公房・作「棒になった男」の主役を務め、演劇部の県大会でかなりいい所までいったと記憶してます。 郷田ほづみ君は、3年下なので小田校演劇部の後輩ではありますがおなじ学内で会ったことはありません。(平光君と郷田君の父親がおなじ会社に勤務、実家も近かったので後に劇団「魔天楼」に入団)当時の小田校演劇部には、1年先輩に井上加奈子さん(早稲田の小劇団「暫」、「つかこうへい事務所」を経て、現在?平田満さんの奥さん)、また、映画部や演劇部を出たり入ったりしていた1年後輩に後のテクノバンド「ヒカシュー」のリーダー、巻上公一君、同じく1年後輩に当時出来たての落語研究会・初代部長で後の「コント赤信号」の小宮君がいました。 さて、ここからが劇団「色鉛筆」の話なんですが、実はほとんど覚えていません。というのも、小田校卒業後、平光君は日大芸術学部演劇学科へ、僕は日大芸術学部映画学科に進学したのですが、僕が他の仲間たちと8ミリ自主製作映画作りに熱中していたため、2~3年の間平光君たちと交流がありませんでした。交友関係の記憶だけで劇団「色鉛筆」の歴史をたどってみます。 劇団結成の言い出しっぺは、確か多田誠君。多田君は、前出の椎野保之君と同じく橘中学校出身、小田校の隣の神奈川県立西湘高校卒業後、日大芸術学部演劇学科に入学。高校時代の演劇部同士の交流が縁で、平光君や椎野君、演劇学科の同級生をさそって劇団「色鉛筆」を結成したようです。(多分、昭和48年、’73年だと思います) 結成後、最初の年に既成の戯曲(多分、木下順二の「夕鶴」のたぐい)で、学外の小劇場で一公演を行ったのだと思います。それで、2年目の時、今度はオリジナル台本でミュージカルをやろうという事になって、高校時代の仲間や演劇学科の後輩たちに声をかけました。この時、多田君の誘いにのって参加したのが、演劇学科1年後輩の赤星昇一郎君、高野寛君、高校時代の同級生だった松本きょうじ君、杉政俊哉君さらに平光・多田の演劇学科同級生安西正弘君(現テアトル・エコー所属、声優としても活躍中)などでした。 かなり大人数が参加した劇団「色鉛筆」の第二回公演は(タイトルは失念しました)昭和49年(’74年)、小田原市民会館を2日間だけ借り切って行われたと思います。 平光君の役所は覚えていませんが、舞台に数台のオートバイを持ち込んだロックンロールミュージカル風のものだったと思います。(僕は頼まれて、本番の時だけ照明を手伝いました)結局、この公演を最後に、芝居の方向性の違いから劇団「色鉛筆」は解散、または活動休止になったようです。 こうして、多田誠君と別れた平光君が、前出の松本きょうじ君、安西正弘君などと結成したのが劇団「魔天楼」でした。結成は多分、昭和50年(’75年)。この年の記念すべき第一回公演は、当時まだ無名だったつかこうへい・作の「出発」。渋谷のいまはなき「天井桟敷」を3日間ほど借りての初舞台でした。(この時、僕は音響を担当しました) つかこうへいさんとの関係は、当時早稲田大学の劇団「暫」に入っていた前出の井上加奈子さんが取り持ってくれました。つかさんは、慶応大学の出身ですが、当時は劇団「暫」をベースにオリジナル戯曲と演出を手がけていました。確か、3~4作目の「熱海殺人事件」で岸田戯曲賞を受賞、当時の劇団員だった井上加奈子さん、平田満さん、三浦洋一さんなどを誘って「つかこうへい事務所」を結成。残された劇団「暫」は、古関さん(芸名・キタロウ)を中心に数本公演を行っていましたが、この時知り合った大竹まことさん、佐伯さんと共に後に「シティーボーイズ」を結成しています。 閑話休題。 第一回公演「出発」では平光君は長男役、お父さん役は安西正弘君だったと思います。演出の名前は「車 忠則」(くるま・ただのり)とクレジットされています。これは、当時の演出が、松本きょうじ君を中心にほとんど役者全員で演出していたため、その合体名として使っていたようです。また、平光君は劇団「魔天楼」の発起人ではありますが、この後のつかこうへい原作の公演にはほとんど参加していなかったようです。多分、その頃、新劇の大手劇団「雲」の研究生として入団したため、そちらの活動が忙しかったのだと思います。(ちなみに劇団「雲」は、その後、岸田今日子さん・中谷昇さんなどが中心となって演劇集団「円」を結成。平光君も研究生としてその創立に加わり、数年後、「円」の正劇団員となっています。また、当時の創立メンバーには、平光君の現在の奥様、千種かおるさんがいました。) つかこうへいさんの原作戯曲を使っていた時代の劇団「魔天楼」公演は、「出発」を起点にその後、2年間に渡って3本公演しています。平光君が直接タッチしていないので簡単にまとめておきます。 昭和50年(’75年)秋~冬 池袋小劇場にて「郵便屋さん、ちょっと!」 原作:つかこうへい 演出:車 忠則(松本きょうじ) 出演は、椎野保之、安西正弘など。 昭和51年(’76年)夏 水道橋・労音会館にて「熱海殺人事件」 原作:つかこうへい 演出:車 忠則(この時は確か、多田誠が演出だったような…?) 出演は、松本きょうじ、椎野保之など。 昭和51年(’76年)冬 浅草・木馬館にて「生涯」 原作:つかこうへい 演出:車 忠則(松本きょうじ) 出演は、椎野保之、橋本紀代子(後の魔天楼の主演女優になる) そして、赤星昇一郎、高野寛(後の魔天楼の二大看板になる) ここまでがいわば、「魔天楼」前史。「色鉛筆」時代がエピソード①とするならエピソード②にあたります。エピソード③にいたって、「魔天楼」サーガはいよいよ黄金時代をむかえます。 エピソード③は、それまでプロデューサー役だった平光君が、つかこうへいさんの戯曲を読むうちに「こんな戯曲だったら俺でも書ける」と大胆にも思ったことから始まります。 時あたかも昭和51年(’76年)。(多分) すでにつかこうへい原作時代の「魔天楼」メンバーはバラバラ、ほとんど活動休止状態でした。 平光君が、つかこうへいのレトリックを取り入れつつ、後の怪物ランドのネタ元となるギャグを織り込みながら書き上げた最初のオリジナル戯曲が「エレナ~芸能界はつらいよ~」だったのです。 公演は、この年の秋(多分)。場所は東長崎のジーンズショップ二階のイベントスペース「タロー村」。 出演は、プロデューサー役に高野寛、マネージャー役に赤星昇一郎。新人アイドル歌手のエレナ役に、当時演劇学科の2~3年後輩だったえっちゃん(本名は忘れました)、その恋人役に同じく2~3年後輩の北村行正君。その他の配役には、演劇学科、放送学科の同級生や後輩があったっています。この中に、後の名脇役として活躍する石川雅史(SF作家石川喬司の息子)がおり、制作および衣装など裏方スタッフに放送学科後輩の北原葉子、ケロ(アダ名)、メイ(アダ名)などがいました。 内容は、新人アイドル歌手・エレナの売り出しとそれに絡まる芸能界のしきたりに苦悩するプロデューサーとマネージャー、恋人との別れ…等々、いたって他愛ないものですが、後の「魔天楼」のベースとなる“笑わせて、最後に泣かせる”というストーリー展開はここに始まったと言えます。また、赤星・高野の二枚看板、北原やケロ、メイのスタッフ陣もこの時の陣容が基本になりました。確か、「エレナ~芸能界はつらいよ~」は、同じ東長崎「タロー村」で再演していると思います。 初演、再演ともに土日にかけての3回公演、収容人数は100人ほどのスペースですから、手売りのチケットでトータル300人ほどの動員だったと思います。また、つかこうへい演劇の影響から多数の歌謡曲、当時のヒット曲を使用、 その選曲とテープ作り、本番での音響は僕が担当しています。 その再演後だったか、初演と再演の間だったか思い出せないのですが、多分、昭和51年の秋か、昭和52年の冬、平光君のオリジナル戯曲&演出の第二弾「新撰組さん、こんにちわ!」を公演。 場所は、東長崎「タロー村」 出演は、近藤勇:高野寛、土方歳三:赤星昇一郎、沖田総司:北村行正、他。内容は、新撰組の池田屋騒動をベースにしたギャグとパロディーで綴る男たちの友情物語。(だったように思います) この公演も大成功をおさめ、オリジナル戯曲路線は勢いづきます。 さて、この年(’77年)、平光君は後の黄金時代を見据えたある重大な決断を行います。それが、僕こと石塚千明へのオファー(ははは!)だったのです。 平光君は、高校時代から自主映画のシナリオを書いていた僕に、「千明なら芝居の戯曲も書けるはず。オリジナルを書いて演出もしてくれないか。」といったのです。当時の僕は、制作費や発表の場がないことから自主製作映画に行き詰まりを感じており、小劇場演劇なら手売りで若干の黒字も見込めることから、気安く引き受けてしまったのです。 こうして、ちあき由宇(当時の僕のペンネームです)のオリジナル戯曲と演出による劇団「魔天楼」第8回公演(つか時代から通算)の火ぶたは切って落とされました。 タイトルは「魔天楼のDOWNTOWN物語」。この時からしばらくタイトルに「魔天楼の~」を付けるようになり、映画やテレビをパロディ化したタイトルになりました。 場所は、この時をきっかけに以後、公演のベース基地となる池袋シアター・グリーン。公演期間は、確か5月下旬か6月上旬の3日間だったと思います。 この時の出演者は、前出の安西正弘がゴットファーザー役、敵対するマフィアに赤星・高野、若きドン役に北村行正、愛人役にケロが扮しています。 平光君は、記憶にないのでこの公演ではプロデューサーを務めたと思います。(出演したとしても、ほんのチョイ役だったと思います)結果は、3日間ほぼ満員で大成功でした。 この公演後、もう一人、黄金時代につながる重要な人物は「魔天楼」に加わります。 そうです、郷田ほづみ君です。当時、玉川大学・演劇学科に入学していた郷田君は平光君の紹介で、入団。以後、かる~い演技の持ち味で、赤星・高野に次ぐナンバースリーへと登り詰めてゆきます。 この年は、初戯曲・演出の成功に味をしめた僕が、平光君のおだても手伝って冬に「魔天楼の大脱走」を公演したと記憶しています。 作・演出:ちあき由宇 場所は池袋シアター・グリーン 配役は、捕虜収容所のドイツ軍将校や兵士に、赤星昇一郎、郷田ほづみ、石川雅史。 アメリカ軍の捕虜役に、高野寛、北村行正、など。 平光君は、ここでも出演した記憶がありません。 明けて、昭和53年(’78年)。平光君は、壮大な企画をぶちあげます。 それが、名付けて「魔天楼フェスティバル」。当時、平光&ちあきのツートップ作:演出で勢いに乗っていた「魔天楼」は、5月の週末の3日間、4週連続して池袋シアター・グリーンを借り切って4本連続公演を敢行しようという訳です。 4本通しチケットで一気に観客動員数の倍増をねらったこの目論見、もう、やるっきゃありません。演目は、平光&ちあきの再演各1本に新作各1本を加えた計4演目。上演した順序は定かでありませんが、そのデータを列挙します。 「魔天楼フェスティバル」 ●「魔天楼の芸能界はつらいよ」 作・演出:平光琢也 出演:高野、赤星、郷田、他 内容:先の「エレナ~」の改訂版。 ●「魔天楼の大脱走」 作・演出:ちあき由宇 出演:高野、赤星、郷田、他 内容:先の「大脱走」の改訂版。 ●「摩天楼の新撰組血風録」 作・演出:平光琢也 出演:高野、赤星、郷田、他に加え、前出の橋本紀代子が沖田総司役で出演。 内容:先の「新撰組さん、こんにちは」の改訂版ではなく、沖田の苦悩を中心にした、かなりシリアスな新作。 ●「魔天楼の千夜一夜物語」 作・演出:ちあき由宇 出演:高野、赤星、郷田、橋本紀代子、他。 内容:レイ・ブラッドベリから想を得たダンス中心の変則オムニバス・ミュージカル。 この「魔天楼フェスティバル」から、現在、郷田君の奥様の山本直美が女優として参加。劇中のダンスの振り付けはすべて直美が担当しています。 |