石塚千明が語る 魔天楼サーガ その4

大変、大変遅くなりました。
 半年先、あるいは1年も先の番組企画に追われていました。ま、余計な言い訳をせずにとっとと書き始めましょう。以下から、第四弾、「怪物ランド・サーガ・エピソード④」です。

 さてさて、昭和58年(’83年)5月の「お笑いスター誕生」ストレート10週勝ち抜きを機に、怪物ランド周辺はにわかにあわただしくなります。ま、当たり前といえば当たり前ですが、お笑いニュースターの誕生という事で、様々な芸能プロダクションからお声がかかる訳ですね。これが、お笑いの付かない「スター誕生」だと、審査結果の段階で各プロダクションの札が上がるので、グランプリ獲得と同時にほぼ所属プロダクションが決定するのですが、お笑いさんはまだそこまでマーケットが出来ていない。今でこそお笑いタレントはトップスターですが、当時はまだまだ「イロモノ」で、通常のタレントや歌手より一段格下という考えが根強く残っていました。「お笑いスタ誕」の通例として、番組の制作会社でありお笑いタレントも何人か抱えている「日企」さんからまずお声がかかります。

 「お笑いスタ誕」出場時点ですでにプロダクションに所属している者もいました。例えば、確か「シティー・ボーイズ」は「人力舎」というプロダクションに所属済みでしたが、怪物ランドはもちろん無所属。当然、最初に「日企」さんからお声がかかりました。その他「人力舎」はじめいくつかのプロダクションから声がかかったのですが、ここへ来て、思わぬビッグ・プロダクションが怪物ランド獲得に動き出したのです。そうです、当時「笑っていいとも」を大ヒットさせたあの「タモリ」の所属する「田辺エージェンシー」が、社長・田辺昭知氏自らの希望で声をかけて来たのです。

 平光君から僕に「どこにしたらよかんべ?」(小田原弁)と相談がありました。が、しかし、平光君の胸の内ではすでに決めている事が、長年のつきあいですぐにわかります。今や「ホリプロ」「ナベプロ」はじめ多くの大手芸能プロダクションがお笑いタレントを抱えていますが、当時、歌手やタレント中心だった大手芸能プロダクションの中で唯一「イロモノ」系タレントを抱え、番組制作も手がけ、しかも大成功させていたのは、「田辺エージェンシー」をおいて他にありません。
 当時、「田辺エージェンシー」および系列会社に所属していた大物と言えば、タモリさん、堺正章さん、研ナオコさん、中原理恵さん、由紀さおりさん、小林麻美さん、さらにアルフィーさん、等々そうそうたる顔ぶれ。その頃破竹の勢いだったアルフィーさんも大ヒットが出るまで数年間も温存されていたと言う噂もあって、とにかく安売りしない、待ちの姿勢で知られる筋金入りの芸能プロ。こりゃあ、平光君ならずとも「ここっきゃねぇべ!」と思う訳ですね。かくて、昭和58年(’83年)、5月の終わりか6月初め頃、「祝!怪物ランド・田辺エージェンシー所属!」となったのであります。

 さぁお立ち会い、ここからが急転直下、すごい勢いで事が展開していきます。

まず、怪物ランドと田辺社長との面談第一声が「お前らは自分の番組でデビューさせる」と、こうですもの。所属が決まった時には、「まぁ、バラエティー番組のゲストとかアシスタントとかでテレビに出られるんだろうな、あ、いいとも青年隊の後釜になっちゃったらスゴイよな」なーんてお気楽に構えていた訳ですから、そりゃもうビックリ!
ついては、「お前らの周りで台本とかチョウチンとか書ける奴連れてこい」と。(ちなみにチョウチンは当時の田辺社長の口癖。別に意味はない) チョウチンは書けないけど台本は書けると言うことで、ついに私こと石塚千明めの出番とあいなった次第でございます。すぐに、当時は飯倉片町にあった「田辺エージェンシー」の会議室で、後に「御前会議」と呼ばれる番組企画会議がスタート。

大体週1回、夕方から深夜、時には明け方まで行われた「御前会議」の参加メンバーは…

田辺社長を筆頭に、怪物ランドの3人、僕、既に担当が決まっていたマネージャーの石崎順子、時々参加して鋭い事を言う当時チーフ・マネージャーで専務(?)の菅原さん(現在「ぐあんば~る」社長)、そして何と言っても、後に重要な戦力となる前田光司(現在、多分「電通プロックス」でCF制作をしてると思う)。彼は当時、立教大学在学中で映画研究会か何かで数本8ミリのショート・フィルムを作っているらしく多分台本も書けるんだろうと、赤星君が連れてきました。初めのうちは他に何人か知り合いの演劇人やコント作家も参加しましたが、どうもソリが合わなかったのか結局残ったのは僕と前田君だけでした。

田辺社長からの話の概略は、「タモリ倶楽部(この1年程前に現在と同じ金曜・同時間帯でスタート。当時の構成作家は故・景山民夫さん))に繋げる形で月曜から木曜まで深夜の帯番組を作る、いわばラジオの深夜番組のテレビ版だ、まずは月から木までどんな番組のヴァリエーションがあるかを考えろ、チョウチン」と言うもの。さらに自分たちの番組を考えるにあたっての心構えとして「お笑いスタ誕でやってたネタは面白いと思うが、ネタ勝負でやってたら番組は10回で終わってしまう。テレビ番組として“続く仕組み”を考えろ、チョウチン」と。こう言われればこちらは劇団出身ですからまず頭に浮かぶのが連続ドラマ。折しも「タモリ倶楽部」では「愛のさざなみ」という連続ドラマのコーナーが人気を呼んでいたので、その怪物ランド版を咄嗟の思いつきを述べると、「あのドラマは、好きな女がいて上手くいきそうになると何か邪魔が入って結局できない、このヤリたくってもデキねぇと言うのが連続ドラマの基本的セオリーであり、これが “続く仕組み”なんだ」と。「テレビって深い!」と舌を巻く平光君と僕。大体劇団の座長をやっていた若僧なんか多かれ少なかれ自分にカリスマ性があると自惚れているもんですが、そんなもの足下にも及ばない本物のカリスマ性とハイ・テンションな語り口に、平光君も僕も茫然自失、圧倒されっぱなしでした。

他にも実に様々な実体験を例に挙げて番組作りの奥深さを教えていただいたのですが、今に至るも最も強烈な印象として頭に焼き付いているのがこの “続く仕組み”と言う言葉。それまで、ただひたすら1本の芝居やコントの作品的完成度を追い求めて来た者にとって “続く仕組み”というのはまったく頭の中になかった概念。この「番組は第1回目から最終回までで1作品」、ぶっちゃけて言えば「番組は続けてナンボ」という事を後に身を持って思い知らされる訳すが、私はこれを「継続は力なり」とカッコよく置き換えて現在も作家としての “座右の銘”としております。

閑話休題。田辺社長から文字通り様々な「薫陶」を受けつつ、「御前会議」は回を重ねてゆきます。その都度、コーナー案やコントのネタをレポート用紙に書いて持ち寄りみんなで検討、それを徐々に台本にまとめていった訳ですが、社長はそれをチラっと見るものの個々のネタや台本の善し悪しについては一切言及なし。「そろそろ台本にまとめろ」とか「そろそろ番組のタイトル考えろ」とか進行状況にだけ気を配って、あとは僕らのペースにまかせてくれました。

(番組タイトルが決まった経緯については他のコーナーで書いたと思うのでそちらをご参照下さい)

 その当時書いたネタや台本は最終的にレポート用紙にして300枚以上、厚さ5~6センチに及んだと思いますが、何故か個々のネタや台本の記憶は一切ありません。(多分その時点では使い物にならなかったからだと思いますが、いくつかのアイデア自体は後にリサイクルしたはずです) ただ、僕個人としては当時人気だった「川口浩の探検隊シリーズ」(現在藤岡弘版で復活)をパロッたいわゆる「ウソ・ドキュメンタリー」に固執していた記憶があり、平光君は人気テレビ・ドラマのパロディーをやりたがっていたように思います。結果的に僕と平光君の思い入れは「ウソップランド」の前半と後半に反映される事になったのですから、結果オーライと言う訳ですね。
今にして思えば、劇団「魔天楼」の初期時代から「お笑いスタ誕」まで連綿と受け継がれてきたのがこの「パロディー精神」。その時々話題を呼んでいるテレビや映画、社会現象や時事ネタを皮肉ったり、毒を吐いたり、笑いものにする「パロディー」がやりたかったんだと、遅まきながらも気が付いた事がこの時期の最大の成果と言えるでしょう。端的に言えば「パロディー」イコール「嘘」と言うことで「ウソップランド」の番組タイトルだけが6月から8月まで3ヶ月かけて決定した事だったのです。ちょっと情けないけど…。

さて、季節は怒濤の夏を過ぎ早くも9月に突入。10月スタートの番組ですからもう制作体制を固めていかなければなりません。この時点で田辺社長から「現場を仕切る制作会社が決まった。担当のディレクターは若いけどヤリ手らしいよ」と紹介されたのが「ミュージック・ファーム」(現在「エム・ファーム」)であり、当時33才の気鋭ディレクター高麗義秋(現「エム・ファーム」社長)だったのです。まだテレビ業界を何も知らない僕がこの時思ったのは、「アレ?田辺エージェンシーが現場も制作するんじゃないの?」と言う事とグラデーションのサングラスをかけた高麗さんの姿に、「いよいよ業界っぽいディープなゾーンに入って来ちゃったな…」ってな感じ。これに対して高麗さんの第一印象は、「変な奴ら任されちゃったぞ、まいったなこりゃ…」って感じだったと後に語っております。ま、「ヨロシクオネガイシマース」式の新人紹介に慣れていた高麗さんとしては、当時すでに28才(僕と平光君)のトウの立った新人がこう映ったのは当然かもしれません。両者を紹介した田辺社長はそのまま「じゃ、あと任すわ」と帰宅。後に残された怪物ランド、僕、前田君、石崎さん、と高麗さんの間で腹のさぐりあいが始まります。

最初、僕らが一応台本にまとめた部分を見せて高麗さんに意見を伺った所、チラっと見て「はい、わかった」とつれないご返事。ま、これもテレビ台本の体裁を成していなかった訳ですから読んでも何が何だかわからなかったのでしょう。で、高麗さんから出たのは「オープニング・タイトル、どんな感じにしようか?」と言うもの。そのまま、やれ昔のハリウッド映画のクレジット風がいいだの、分厚い辞書を開く感じがいいだの喧々囂々、結局何の結論も見ないまま朝を迎えたのでした。波乱ぶくみのファースト・コンタクトでしたが、この時はまだ後に控えた大波乱を知る由もなかったのです。

これに継いで、テレビ朝日の初代番組プロデューサー・皇達也氏から連絡が入ります。「企画書が必要だ」と。それまでテレビの企画書なんぞ書いたことない僕ですが作家なんだから「とりあえず来い」と。こうして、怪物ランド、石崎さん、僕、前田君、が飯倉片町「キャンティ」の皇さん前に集合。どうも状況として僕がその場で書かなきゃいけない雰囲気。皇さんは「もう、スポンサー(リクルート)も制作会社も決まってんだから簡単でいいんだ」とおっしゃるものの何をどう書いていいものやら…、冷や汗を流しつつA4レポート用紙にでっち上げたのが、

「企画意図:テレビの深夜帯に若者の解放区を作ります。企画内容:様々なテレビ・映画・ブームをパロディー化した若者向けの情報バラエティー番組です。」

以上、わずか2~3行。

通常、番組企画書ってものは切りつめて書いても5~6枚にはなるものですが、見よこのシンプルさ!
今や通算300本以上の番組企画書を書いている僕ですが、時代が時代とはいえこんなんですんなり通っちゃたんですもの、あぁ、あの頃に帰りたい…。 「パロディー化」という言葉を使ったかどうか定かではありませんが、この時点で決まっている事といえば、確かにこんなもんだったのです。

そんなこんなで舞台は飯倉片町「田辺エージェンシー」から、当時乃木坂にあった「ミュージック・ファーム」へと移ります。初めて行ってビックリ、「ミュージック・ファーム」の会議室には高麗さんをはじめ構成作家が3人、それぞれコント台本持って待ち受けていたのです。高麗さんいわく「30分の番組を維持するには3,4人の作家が必要だから腕っこきの作家に来てもらった」と。「それぞれショート・コントを書いてもらったから読んでみてくれ」と。読んでみると、怪物ランドのキャラクターをまったく無視した内容。作家は誰一人として怪物ランドを知らないんだから当然と言えば当然ですが、この時は僕も怪物ランドもさすがに頭に血がのぼりましたね。「僕たちの書いた台本はどうなったのだ」と。「読んだけどどう撮っていいかわからないから、こっちの台本をアレンジしてやってくれないか」と高麗さん。細かな状況は忘れたけど本当に頭に来た僕は「そうか、僕は作家としてお呼びじゃない訳か」と、捨てぜりふでそのまま帰宅。以後、何回か平光君か「あんな台本じゃできない、お前がいなきゃ困る」と電話があっても「いいや、俺は降りる」と腹をくくってしまいました。

この時点ですでに10月、もう第一回目の収録をしないと間に合いません。これは後で知ったのですが、平光君はずっとゴネ続けて結局、「お笑いスタ誕」で発表してなかった「精子コント」をベースに書き直し近所の公園でロケして何とか第一回目をしのいだのです。

大波乱の幕開けにふさわしく、「ウソップランド」第一回「精子社会に挑む」のロケは台風のさなかに行われたそうです。

そーいった訳で、「ウソップランド」の記念すべき第一回目に限って、僕はまったくのノータッチ。「くそっ!業界の罠にはまったな」とふて腐れておりました。そんな時、高麗さん本人から電話があって「ひどいロケだった、あんなんじゃ2回目以降続けていけない。なんとか怪物ランドとの間に立って台本書いてくれないか」と。根が軽薄な僕は「そうか、やっぱり俺がいないとダメか」とたちまち機嫌を直し、おっとり刀で「ミュージック・ファーム」へ。その後連日、高麗さんはじめ、時には怪物ランドや他の作家諸氏を交えて話し合い「ウソップランド」の制作体制を作っていったのです。

 第二回目の収録にはまだ少し間があったのですが、そう簡単に制作体制が整うはずはありません。台本作りの作業をしながら2ヶ月ぐらいかけて内容を固め収録スケジュールを決めた行ったように思います。ですから手元に何の資料も残ってないのでわかりませんが、第一回目から最初の数本はかなりシッチャカメッチャカの番組内容だったと思います。
台本作りとロケをこなしながら平行して週1回(最初のうちは週2~3回)エンドレスの会議が行われました。

その会議の参加メンバーは…

 怪物ランド、僕、前田君、高麗ディレクター、石崎さんをはじめ作家諸氏と関係者。

川崎 良(通称良さん)放送作家兄弟の末弟(兄は「シャボン玉ホリデー」を手がけた河野洋さん) にしてバラエティー界期待の若きプリンス(当時)。その後、「タモリのジャングルTV」他、多数の人気番組、「ヤマダかってない」等のCMコピーも手がける。

清水 東(通称東君)同じく草分け的放送作家を父に持つバラエティー界のサラブレッド(当時)。
「サザエさん」の台本はじめ、その後、「笑う犬の生活」等ウッチャン・ナンチャン系の番組他多数を手がける。

良さん、東君は二人とも一時「8時だよ!全員集合」でドリフのコント台本を書いていた。コントのテイストで言えば良さんは「都会派」、東君は「人情派」と言った感じ。

他に時々参加してたのは…

今野泰臣(通称マンちゃん)ミュージック・ファームのプロデューサー。レコード会社から独立した彼が高麗さんと立ち上げたのが「ミュージック・ファーム」。「ウソップランド」はその初レギュラー番組。ちなみに、高麗さんは、某制作会社の社員時代から「ギンザ・ナウ」や「コッキーポップ」の演出を手がける音楽系ベテラン・ディレクター。

宮下康仁(通称宮下先生)「ウソップランド」には後期からアドバイザー的な役割で参加。TBSの「ザ・ベストテン」等を手がけたベテラン音楽系構成作家。(現在「エム・ファーム」の副社長か専務?)

他に、歴代AD(アシスタント・ディレクター)として、三木ちゃん、後藤君、石野君、春木君、等々。
中でも、石野隆巳君は「ウソップランド」後期にはディレクターに昇格。現在「どっちの料理ショー」等の演出を手がけている出世頭。

約2ヶ月にわたるエンドレス会議で決めていったのは…
まず、これまでの台本は全て捨てて会議をしながらその都度テーマを決め、平光君を含め僕、良さん、東君が手分けして書く。番組前半は僕の固執したウソ・ドキュメンタリーと、高麗さん「社会的な現象やブームなんかの時事ネタをベースにした方がネタが尽きないんじゃないの」との間をとって、「ドキュメンタリー・パロディ」。これは後に、
「もし、この○○ブーム・現象が進むと⇒(艦砲射撃や空襲、ナチスの行進などの資料映像で)やがて戦争に突入⇒その結果こんなになっちゃうかも」と言う「IFパターン」、「この現象・ブームはこんな所にも波及して…」と奇妙奇天烈なヴァリエーションを並べる「カタログ・パターン」、「この現象・ブームをこんな風に楽しもう!」と提案する「HOW TO パターン」等、様々なパターンが開発されました。

番組中盤は、前半の「ドキュ・パロ」を受けて既存のミュージック・ビデオ(当時、全盛期)を尺調整のために30秒から1分、スポンサーが「リクルート」と言う関係上他社とバッティングしないメリットを生かした「なつコマ・リクエスト」、田辺社長の「ラジオのリクエストハガキをテレビでやるんだったらビデオレターだろ」との意見を受けた「チャレンジ・ビデオ」、これは最初、前田君が呼び水として数本の短編ビデオを制作。番組関係者周囲にも応募を呼び掛けたものの時期尚早だったのか集まらず初期のうちに終了。そして番組後半は、平光君こだわりの「ドラマ・パロディ」コーナー。これも、最初のうちの怪物ランドのオリジナル・ネタを披露するコーナーから発展して、魔天楼時代の8ミリから受け継がれた映画や新番組の「予告編形式」、政府公報やお知らせをパロッた「告知形式」、ウソ新製品発売の「CMパロディ形式」、さらに「貧乏パワー」や「バロムI」「バーゲン部」等の「夜のドラマ・シリーズ」へと枝分かれしていきます。番組中期以降はさらに出演者個々のキャラクターを生かした「子泣きジジイ」、「アンケート調査員」、「小雪のヤな野郎」、「だって友達になりたかったんだもん」、「知恵袋おばさん」等、様々なショート・コーナーが誕生しました。

尚、ここで明記しておかなければならないのは今現在一回々々のネタやタイトルを正確に把握している者は、僕をはじめ当事者では誰一人としておりません。
「ウソップランド」(「なに、ソレ!?」も含めて)の放映リストについては、「スタジオじぱんぐ」さん製作の「しんや てれび むかし」に、第一期から第五期に分けて驚くべき詳細さで掲載されております。一体どこで調べたんだ!ってくらい詳細なので是非そちらをご覧下さい。僕をこれを書くにあたって参照させていただいてます。
ちなみに、その第一期1回目から8回目まで「ドキュ・パロ」以外は「NO DATE」となってますが、番組スタート時の大混乱のさなかだったため僕自身何をやったのか皆目覚えていません。ただ第二回目「就職戦線異状有り」、第三回目「プラスチックマネー」となっているので、番組前半の「ドキュ・パロ」コーナーは一番最初に固まったのだと思います。

さてエンドレス会議に戻って、番組構成内容についてはこんな風に徐々に固まっていったのですが、番組オープニング・タイトルとエンディング・タイトルは、高麗さんが良さんと相談してすでに作ってありました。オープニングの画は、「御前会議」の「ノスタルジックな感じ」と「ラジオの深夜番組のテレビ版」を受けてアンティークなラジオの画。テーマ曲は高麗さんの好みで「イン・ザ・ムード」のテクノ・アレンジ。(これは、僕の魔天楼初戯曲「ダウンタウン物語」がベット・ミドラーの歌う「イン・ザ・ムード」で始まったので不思議な縁を感じました)エンディングには「イン・ザ・ムード」に赤ちゃんの泣き声がかぶるのですが、これは良さんの怪物ランドの第一印象「異様な感じ」と、高麗さんが当時夜中に帰宅すると生まれたての息子(林太郎君、現在ADとして活躍中)の夜泣きに悩まされたと言う事を受けて「異様な印象」を残すためあえてかぶせたもの。後になって知る事ですが、新番組がスタートする時この程度の混乱はむしろ常識。会議を重ねるうちにそれぞれの人柄もわかり鉄壁のチーム・ワークが出来ていったのでした。

番組内容と平行して固めていったのが制作スケジュール。これも正確には覚えていませんが多分…
 月曜日に怪物ランド、作家陣、演出陣を集めて次回放送分のネタ&構成を決めるエンドレス会議。大体どこの世界も同じでしょうが、テレビ業界は特にぎりぎりにならないと頭も身体も働かない体質。したがって放送分は1本のストックもなしでスケジュールが狂ったら終わりって状態でした。ネタ&構成が決まったら、平光君、僕、良さん、東君で手分けして台本書き、締め切りは翌火曜日の夕方まで。台本が上がってきたら僕がまとめてその日のうちに当時赤坂にあった美術会社「未来」さんでいわゆる美術発注。予算の少ない深夜番組ですから、大道具は基本的になし。持ち道具はおもちゃか紙で作る。衣装は美術担当の辺見さんのコネで無料のものを調達。あとはメイクの飯塚悦子(通称エッちゃん)が顔に何か描いてごまかす、と言う基本方針。
こうして後に「ウソップランド」を特徴付ける「ゴザと卓袱台を置いたらどこでも居間」、「ノーズ・パテを付けたら外人」等の発想は、極小予算の苦肉の策として生まれたのです。ま、平光君や僕など小劇場出身者としては割と当たり前の発想ですが、当時のテレビとしてはかなり「異様」に映ったようです。良さん、東君もすぐに慣れて台本のはじっこに「こーんなカブリ物をボール紙で作って」とかイラストを描いてました。で、翌水曜日は高麗さんと相談しながら僕が「コウバン表」書き。「コウバン表」と言うのは、ロケのタイム・スケジュールに沿ってこの場所で台本○ページのこのシーンを撮影、このシーンの出演者は誰それで、衣装や持ち道具は何々、この間誰それは次の衣装に着替えメーキャップ、等々の段取りを全て詳細に書き込んだ表でまさに「ロケはコウバン表が命」。本来ならADさんの仕事ですが、台本と美術・衣装を全て把握してるのは僕しかいなかったので実質的なAD業務は僕がやらなければなりませんでした。
そして翌木曜日は一日がかりのロケ。通常のロケ・スケジュールは… 午前7時ぐらいの早朝から、出演者、ロケ・スタッフが全員「有栖川公園」に集合。「有栖川公園」は、池あり、滝あり、噴水あり、木立あり、砂場あり、滑り台やジャングルジムもありで色んなシーンがまとめて撮れると高麗さんが探してきたもの。後に公園の上にあるグラウンドは「有栖川ライブ」のステージにもなります。

以来、様々なバラエティー番組でロケの名所となってますが「有栖川公園」を有名にしたのは間違いなく「ウソップランド」であり、自慢じゃないけど僕を含め出演者は全員1度や2度は池か噴水に飛び込んでおります。その「有栖川公園」の中央にある「東屋」が楽屋兼制作本部。出演者たちはここで人目もはばからず衣装替え、メーキャップ、僕は進行状況を気にしながら終始出演者たちに巻きを入れ、台本を小直し、自分出演用の「謎のせむし男の出っ歯」などを切り抜いておりました。ちなみに、その後「有栖川公園」には怪物ファンの女の子たちが続々と集まるようになり数がどんどん増えていったので、「どうせならその子たちを観客にしてコントのライブをやっちゃおう」と始まったのが「有栖川ライブ」です。天気の良い日は公園のベンチに三々五々分かれて「ホカ弁」のランチ・タイム。天気と言えば、ストックがない状態ですからロケはもちろん雨天決行ですが、不思議と雨にたたられた日はほとんどなかったと記憶してます。陽のあるぎりぎりまで「有栖川公園」で撮影して、六本木に移動。フットワークの良い荒井ちゃんやたけちゃんマンのカメラ・クルーが雑景撮りをしている間に、他の者は当時の「防衛庁」隣りにあった「リュウ・スタジオ」入りして、メーキャップやセッティング。ここで残ったシーンを全て撮らないとロケは終わりません。照明の中村さんのアイデアで室内シーンはホリゾントに窓型の照明、夕方のシーンだったら赤く夜はブルーと、ライティングでシチュエーションを作ってこれも大巻きで撮影続行。全てを終了するのが大体午後10時ぐらいでした。翌金曜日は午前中から高麗さんが編集スタジオ(当初は「銀座ビデオテック」、後に「映像通信」)に入って次回放送分の編集作業。今でこそどこの制作会社にもオフライン編集器があり「粗編集」をしてから編集スタジオに入るのが常識ですが、そんなもののない当時はまさにブッツケ本番で編集。夕方には、音効の稲村さん、僕、怪物ランドも入ってそのままMA(マルチ・オーディオ)に突入。魔天楼の予告編に始まり当時はすでにラジオのナレーションも経験していた郷田君の巧みなナレーションを入れ、音楽や効果音を入れ、整音して、めでたく一回放送分の「ウソップランド」が完成。その日のうちか翌土曜日に局に納品して、またもや月曜日、次回放送分の会議に突入するのでした。(今、チラッとロケ日とオンエア日が同じだったような…と言う記憶が頭をかすめました。だとしても金曜会議、月曜台本締め等々曜日が変わるだけで基本的なサイクルは同じですね)

「ウソップランド」の放送は、確か毎週水曜日の深夜0時30分から1時。時期によって多少前後したと思いますが、前にあるのは当時、利根川さんが司会していた「トゥナイト」と「若原瞳のラブリーテン」、その後には何の番組もなく、他局もその時間帯はせいぜい何度も放送した古い映画をやっていたくらいでしたから、まさに深夜番組のパイオニアといって過言ではありません。昭和58年(’83)10月26日にスタートした「ウソップランド」。それに続いて確か半年ぐらい後に、月曜日はテンパイポンチン体操で知られる日本で一番早いモーニング・ショー「グッド・モーニング」(ダウンタウン浜ちゃんの奥様が出演)、火曜日はごめんなさい番組名忘れました。木曜日は「怪物ランド」に続いて「お笑いスタ誕」でグランプリ獲得の「とんねるず」主演のミュージック・ビデオ風ドラマ「トライアングル・ブルー」(構成は多分、秋元康)がスタート。ここに田辺社長の構想したテレビの深夜帯番組が完成する訳です。

さて肝心の出演者ですが、初期に度々出演してもらった旧劇団仲間による「怪物ファミリー」はどこかのコーナーに書いた記憶があるので、ここでは省略します。あと女性タレントですが、松尾享子ちゃんから松本小雪ちゃんに変わった経緯はこれも別コーナーで書いたので省略。僕も忘れていた享子ちゃんと小雪の間に1~2回出演した女性タレントは、前出「しんや てれび むかし」に名前まで詳細に掲載されているのでそちらをご覧下さい。
とにかく「ウソップランド」が皆さんの心に残っているとすれば、それは間違いなくチーム・ワークの勝利。怪物ランドを中心に、彼らのキャラクターを愛し一丸となって番組作りに取り組んだ製作陣のチーム・ワーク(今風に言えば「コラボレーション」と言った所)があってはじめて生み出されたものなのです。「ウソップランド」でテレビの構成作家としてデビューして以来20年、様々な番組制作に携わってきた僕ですが、あの時のあの現場以上に「面白くてしんどい」体験は今だかってありません。

現場の熱気と制作者たちの情熱は確実に視聴者に伝わるものなのです。

以下、各回の内容は「しんや てれび むかし」をご覧いただくとして、僕の印象に残っているものを順不同でざっと挙げましょう。

「カフェバーでスノッブしてみる…」

第7回目。これはスタッフの一人が「最近雑誌なんかによく出てるスノッブって何?」との質問から僕が書いたもの。当時流行ってた青山のカフェバーでロケ、番組前半の「ドキュ・パロ」に始めて怪物らしいテイストが出てきたと自負しております。ロケの日、東京は数年ぶりの大雪だったっけ…。

「スリラーのパロディ・ミュージックビデオ」

テレビ朝日の二代目プロデューサー・湧口さんが「ウソップ初期の傑作」と絶賛。マイケル・ジャクソンの「スリラー」のMVをかなり早く取り上げ、ナチスの亡霊ヴァージョンにアレンジ。ちなみに、魔天楼の「大脱走」で精巧に作られたナチスの軍服を着て以来僕たちは軍服フェチ。怪物があまり必然性もなく軍服を着たがるのは元はといえば劇団時代にさかのぼる訳です。オリジナルの振り付けをいち早く教えてくれたのは、当時「リフラフ」というダンスグループを率いていた「サム」(安室奈美恵の元・夫)でした。(どっかに書いた記憶あるなぁ…) 「リフラフ」のメンバーに矢尾一樹、僕も振り付けを覚えて出演、夜の倉庫街で「ウソップ」としてはかなり大規模なロケとなりました。

「朝の連続テレビ小説・??家族」

タイトル忘れましたが、初期の「チャレンジ・ビデオ」コーナーの応募作品。といっても前に書いた通り、呼び水の作品を作ってと周囲に呼び掛けたところ当時東君と同じ作家事務所でラジオの台本を書いていた三谷幸喜くんが作ってくれたもの。いきなり兄弟ゲンカの場面からはじまって弟が「兄さんは昔っからそうなんだ!僕のオウムに変な言葉を教えたのも兄さんだったんだね!」という台詞が強烈に印象的。当時からテレビ・ドラマを書きたいと言ってました。このユニークな台詞に現在の片鱗が伺えます。

「正義の力・貧乏パワー」

劇団解散当時、「やっぱ俺たちボンボンはだめだよなぁ、劇団やってくのは貧乏パワーだよ」と僕が言ったところから平光君が発想してコントにしたもの。ちなみに「貧乏パワー!」と叫ぶアクションは「少年ジェット」のミラクル・ボイス「うー・やー・たー!」から来たもので、世代がわかる。

「マルチ時代・バーター全盛期」

タモリさんが「よくやった!」と絶賛。初めての地方ロケで草津温泉の名門ホテル「一井」さんと全面的にタイアップ。郷田君が代理店担当者役で「この後宴会でパーっと!」をエサにロケに干渉、ストーリーが変わってしまうと言うもの。社長さんがシャレのわかる人で自身の役で仲居さん十数人と共に出演、テレビのタイアップの実体を暴いた。ちなみに当時「一井」さんのテレビCMに出てたのは、かつての貴乃花夫妻とまだちっちゃかった若・貴兄弟。

「2泊3日!グアム島PICロケ」

草津ロケの大成功に気をよくして今度はグアム島の会員制リゾートクラブ「P.I.C」と全面タイアップして初の海外遠征。2泊3日のスケジュールで2回放送分プラス・ショートコーナー数本分を撮らなければならないので、まさに僕のAD業務「コウバン表」の見せ場。成田から撮り始め、飛行機の中、グアム空港、PIC行きのバス、着後荷物も置かずに撮り続け、ディナーの模様も撮影、翌日も早朝から夜中まで撮りまくって、ついに3日目は夕方帰国するまで丸一日オフにしたと言うまさに「コウバン表」の勝利。「オフのある海外ロケなんて初めて」とスタッフ全員から感謝された。俺ってタイム・キーパーの才能あるかも?

「秋元康になれなかったよ」

そのグアム・ロケでも撮影したのだが、「ドキュ・パロ」に続けて流すミュージック・ビデオ、怪物オリジナル・ソングを作って番組で流せばCD(当時はレコードか?)発売されるかも、とMVの草分けディレクター・高麗さんが発案。友人のミュージシャンに頼んで多分2~3曲作ったが、うち1曲の作詞に僕、良さん、東君の作家陣が挑戦。「サザンみたいにサビは英語だね」「オー・イエー」「カモン・ベイビー」ぐらいしか浮かばなくて結局不採用。タイムキーパーの才能はあっても作詞家の才能はなかったと言うおそまつ。音楽に強いこだわりを持つ田辺社長が納得しなくてCDリリースまでいかなかったが、この「音楽問題」後に怪物ランド存亡の鍵を握る事となる。

「外苑東通りの狼」

「テレビを壊したい」と言う赤星君の発案でシリーズ化。ジープで赤星君・郷田君が外苑東通りを走り回りながら、現代の様々な風潮に文句をつけ結局テレビ受像器を壊してアタをすると言う理不尽なストーリー。美術の辺見さんが故障したテレビを調達、毎回1台づつ壊していくのだが、赤星曰く「ソニーのテレビは丈夫」。ジープは当時怪物が衣装タイアップをしていた「アーストンボラージュ」のデザイナー、佐藤コウシンさんの自家用車。撮影の間だけ借りてきて、乃木坂と外苑東通りの三角地帯をぐるぐる廻りながら撮っていたのだが、ある時パトカーが来て「君たち毎週ここで撮影してるけど道路使用許可取ってる?」んなもんあるわきゃないけどロケがストップしたら一大事。で、ADさんを人身御供にして警察に出頭、始末書を書いて一件落着。(以後、許可取ってます)

「ラブリー!道をかける少女(当たり前か)」

「ウソップ」後期に設けられた郷田君とゲストとのコーク・コーナー。確か、作家・亀和田武さん、編集者・末井昭さん、女優の城戸真亜子さん、斉藤由貴さん等に出演してもらったが一番印象的だったのが原田知世さん。役得でゲストとの打ち合わせは僕だったが、当時の知世ちゃんはまだ高校生。ブッキングした今野さんが「今日はお掃除当番だから少し遅れるかも」。外で待ってると、制服姿の知世ちゃんが走ってやってきました。いやー、初々しくてホントかわいかったなぁ…。


ここからは「ウソップランド」当時の番組外でのエピソード、これがホントの「番外編」。

「快挙!高視聴率達成」

大体、「ウソップ」の視聴率は平均して3~4%、これでも当時としては驚異的な数字なのだが、二代目プロデューサー・湧口さんはこう言い放った「7%超えたらハワイに連れてってやる」と。どの回だか忘れたが「トゥナイト」の終了間際、炭坑の落盤事故の緊急ニュースが入りその生中継の繋がりで「ウソップ」に突入。結果8%の視聴率達成。ハワイは無理だったが代わりに六本木ロア・ビルにあった「プレイボーイ・クラブ」に連れてってくれました。バーニーガールがホッペの赤いお国なまりのある娘だった事と、メロンの生ハム巻きと高級ウイスキーを死ぬほど飲み食いした事を今でも覚えています。

「挨拶!スネークマン・ショーのドン」

番組がスタートして間もなく、田辺エージェンシーのプロデューサー・立原さんが「同じような事やってんだから、挨拶しとけば」と僕を伴って当時原宿にあった桑原茂一さんのオフィスへ。彼が率いる「スネークマン・ショー」 (メンバーは小林克也、伊部雅刀、YMO、等)はラジオ番組をやっておりカセットやレコードもリリース、「モンティ・パイソン」と並んで僕らのお気に入りだったシュールなギャグ・ユニット。仁義を通しに行った訳だが、桑原さん本人はとても紳士的で優しい人でした。

「感動!早稲田祭のイン・ザ・ムード」

「ウソップ」がスタートして1年後ぐらいの秋、早稲田大学の学園祭に怪物と小雪が招待されてコントをやる事に。当日は昔取った杵柄で僕が音響担当、300人ぐらい入る階段教室の真ん中に陣取ってスタンバイ。 開演時間が来て僕が「ウソップ」のオープニング・テーマ「イン・ザ・ムード」を流した途端、ステージにまだ誰もいないのに観客から大教室を揺るがすようなどよめきと拍手喝采の嵐!隣りにいた良さん、東君と顔を見合わせて「すげぇ~なぁ~!」と作家陣が感動してしまった次第。やっぱテレビの力ってホントすごいよね。

「大儲け!平光君結婚披露パーティー」

「ウソップ」が始まって多分半年後くらいに平光君がかねてより交際中だった劇団「雲」時代からの役者仲間であり魔天楼の芝居にも何度か客演してもらった女優・千種かおるさんと晴れてゴールイン!(赤星君は「ウソップ」スタート以前に結婚、郷田君は平光君の一年後ぐらいに魔天楼のメンバーだった直美さんと結婚)。当時は多分新宿・三越の裏手あたりにあった「新宿ロフト」を借り切って、仲間や番組関係者を集めた披露パーティーをやる事に。幹事は僕、司会は赤星・郷田で多分5千円ぐらいの会費制。ロフトの人が「噂を聞きつけてファンの人もきっと来るから会費とって入れてあげれば」との提案。会場の収容人数は200人は軽く入るのに対し予定される仲間・関係者は約50人。そこでロフトのプログラムに載せてもらい当日表に張り紙だけして蓋を開けてみれば何と超満員の大盛況!魔天楼仲間のパフォーマンスあり、関係各社から供出してもらった自転車やテレビが賞品のビンゴ大会ありでかなり充実した内容だったと思うが、収支決算は十数万円の大黒字。平光君夫妻、僕、赤星・郷田で山分けさせていただきました。ファンの皆さんありがとう!俺って幹事の才能あるかも?

さてここからは、「ウソップランド」終了に至ったちょっとシリアスな話。

番組も2年目を過ぎ誰しもがパワーダウンを感じていた頃、番組制作そのものは石野君もディレクターに昇格してスムーズに進行しておりました。僕個人がこの頃一番感じていたのは御前会議で田辺社長に言われた “続く仕組み”。ここにきて放っておいても番組が続く連続性のあるコーナーなり仕掛けを作って来なかった事が痛切に効いてきました。この頃怪物ランドも他の番組に何本かゲスト出演してましたが、劇団出身のためかアドリブもあまり上手くなく他の出演者との話もイマイチ盛り上がりません。「とんねるず」や「ダチョウ倶楽部」など後発のグループが続々ゴールデンに進出しているのに対して怪物は益々「ウソップ」一点集中型を強めている状況。つまり “守りの姿勢”が目立ってきた訳ですね。そこで僕が高麗さんに「そろそろ怪物もウソップを卒業してよい頃では?」と提案。同様の事を感じていた高麗さんは「確かにパワーダウンしてるけど局はまだ続けろって言ってるしなぁ…」、そこで会議にはかって「視聴者に飽きられないうちに止めちゃった方がカッコイイ」と終了を提案。ついては「怪物も作家陣も次なる展開を考えるため半年は番組タイトルを変えて総集編的な番組をやろう」と。こうして実は最終回の数ヶ月前に「ウソップ」終了は決定していたのです。

半年の執行猶予期間限定番組は「いわばエピローグ的な番組なんだから軽~いタイトルの方がいいんじゃないの」との良さんの提案で肩すかしを食ったようなタイトル「何、ソレ!?」に決定。内容はこれまでの「ドキュ・パロ」に代わって既存の歌をテーマでまとめたミュージカル風あり、これまでのショート・コーナーの焼き直し篇あり、何でもありのスクランブル・コーナー、マッチすりから効果音、お風呂遊び、神経質さやぜいたくさまで何でも競い合う「ザ・格闘技」、それに個人コーナーを加えたまさにゴッタ煮的内容。後釜番組の内容が決まったうえで確信犯的に「ウソップランド」は5回にわたる総集編を放送して、昭和61年(’86)4月16日、第124回をもって最終回を迎えたのでした。

そんな訳で「ウソップランド」最終回の翌週4月23日にはもう新番組「何、ソレ!?」がスタート。始まってみればすでに怪物とスタッフの呼吸が合っているため意外にも洗練された内容。僕ももちろん台本は書いていましたが、ロケや編集・MAに出なくてもよくなったため執行猶予期間をフルに活用してレギュラー番組を一気に拡大、急に忙しくなってきました。ですから特に思い入れのある回はありません。今までがあまりにはまり込んでたのでむしろせいせいした感じさえしました。
「何、ソレ!?」各回の内容については、これも「しんや てれび むかし」に詳しいのでそちらをご覧下さい。
今思えばこの時期、僕が怪物の新番組の企画書をバンバン書いて局なり各制作会社なりに持っていけばよかったのですが、当時はとてもそんな事まで気が回りません。ひたすら新しく付いた番組の会議や構成に追われておりました。怪物もこの時期新しい展開を考えていたはずですが、一体それをどういうルートで提案したらいいのかわからない状態だったようです。

後釜番組「何、ソレ!?」は、予定通り昭和61年(’86)9月24日、第23回の総集編で終了。
しかしこれが、怪物ランドとテレビとの短い蜜月時代の終わりだったとはこの時誰一人として知る由もなかったのです。と、いつものフレーズで決めて、ですがそれはまた次の話としましょう。

次回は、いよいよ最終章に突入!


番組終了後、怪物たちを待ち受けていたのは果たして天国か、地獄か!?どうする!どうなる!平光君? 怪物ランドの明日はどっちだ!?風雲急を告げる最終章「怪物ランド・サーガ・エピソード⑤」!


近日公開!乞うご期待!!

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