石塚千明が語る 魔天楼サーガ その2

まず、昭和53年(’78年)5月、4週末連続でおこなった「魔天楼フェスティバル」の補足事項から。この時から、赤星の妹の同級生だという事で矢尾一樹(後に声優として活躍)が劇団に参加。また、岸田、佐田野、(名前忘れた)という慶大生も入団しています。

 また、特筆すべきは、4本各演目の芝居が終わったあと、必ず次ぎの演目の予告編を8ミリ・フィルムで上映していた事。予告編の内容は例えば「大脱走」だったら、軍服に身を固めた劇団員がジープで小田原の海岸を走り回ったり、手榴弾を投げたと思ったらドタ靴だったりとしょーもない内容。間に手書きのスーパーで「鉄条網の向こうに自由がある!」「公開迫る!乞うご期待!」とか入る。一本につき3分間ぐらいで、もちろん、僕が監督・撮影・編集・録音。なぜ、特筆なのかというと、郷田が全部のナレーションをやった事。おそらく、不特定多数の人に向けた郷田のナレーションはこれが初めてだったと思います。もうひとつ、後に「ウソップランド」後半部分の定番コーナーとなる予告編パロディーシリーズのルーツは、間違いなくここから生まれています。実際この時も、単なるシャレで作ったのに予想外にうけて、「ぴあ」の人からは「この予告編だけでいいから、PFF(ぴあ・フィルムフェスティバル)に出したら?」といってました。もちろん現在はフィルムの跡形も残っていません。

 この年(’78年)秋、多分、稽古中暑かったから公演時は9月。

●「魔天楼の大都会~東京の青い空~」
場所:池袋シアター・グリーンで多分5日間くらいの公演。
作・演出:平光琢也
出演:高野、赤星、郷田、矢尾、他、魔天楼オールスターキャスト。

 何とこの時、魔天楼芝居では多分初めて、平光本人が出演。(役柄はアルバイトのケンちゃん役)

内容:コン・タロウの読み切り漫画をベースに大胆にアレンジ。舞台は、核戦争後の近未来の東京。放射能に汚染された地上を逃れ人々は地下都市でひっそりと暮らしていた。そんな時、放射能の恐ろしさを知らない少年・少女3人が「青い空が見たい」と地上を目指して旅立った。
それを阻止しようとする警察と少年・少女たちの道行きをカットバック手法で描いた感動のSFスペクタクル巨編!…ってな感じかな?
 これは、タイトルを「ブルー・スカイ」と変えて、確か翌年(’79年)の2月か3月に同じシアターグリーンで再演したと思います。

魔天楼役者初出演が受けて、平光は役者づきます。


この年(’78年)の冬、確か11月下旬か12月上旬、ついに平光を主役に据えて上演したのが、

●「魔天楼の真夜中のパーティー’78」
作・演出:ちあき由宇
場所:池袋シアター・グリーンで、多分5日間くらいの公演。
出演:平光、赤星、郷田、矢尾、杉政、橋本、他オールスターキャスト

内容:ウィリアム・フリードキン監督のカルト映画で知られるが、元はオフ・ブロードウェイの舞台劇。日本で最初に公演した俳優座の台本を入手したが使い物にならないので、エチュード形式で即興劇の稽古をしながら再構成。ダンスやコントを織り交ぜながらも人間の孤独感を見据えた重厚なドラマに仕立てあげた。…って感じ。
当時はまだ、オカマやホモといった存在が市民権を得ていない時代。一学生劇団としては、大胆な試みだったが、公演当日は本物のオカマさんたちが多数来場。プレゼントを貰ったり楽屋に押し掛けられたりで、二の線の役者たちは貞操に危機にさらされた。(残念ながら劇団員は全員、ノーマルでストレート)

実は、この公演が「魔天楼」時代を思い出す時、僕にとって最大の道標であり、冒頭に書いた年号の間違いに気づくきっかけになったのもこの公演です。何故なら、タイトルに’78と入れたから。この公演終了後、まだ日芸に在学中だった劇団員は一致協力して卒業試験を突破。(ま、身代わりで試験を受けたりして)平光、僕、高野、石川、等(赤星はとっくの昔、1年ぐらいで中退)は、翌昭和54年(’79年)3月、無事、日芸を卒業したのでした。(5年生か6年生なので無事でもないか)この年、昭和54年(’79年)、2月か3月、「大都会」を「ブルー・スカイ」に変えて再演した後、未だほとんどの劇団員が就職もしないままアルバイトをしながら劇団活動を続けていたのも、ひとえに当時の「魔天楼」に勢いがあったからでしょう。

(管理人注:第2回目の原稿を頂いた折、『第1回目の「魔天楼」サーガのエピソード③の冒頭、公演記録「エレナ~」以降の昭和年号や西暦年号から全て1年引いて、繰り下げてください。エピソード②最後の浅草・木馬館公演「生涯」は、昭和51年(’76年)の冬(多分、2月頃)で、それから1年以上間があいたはずはないので、初のオリジナル戯曲「エレナ~芸能界はつらいよ~」の公演は、昭和51年(’76年)の秋が正しいと気づきました。年号の間違いに気づいたもう一つの理由は後述します。』と、メールを頂きましたので訂正してあります。)

 当時は、野田秀樹が率いる「夢の遊眠社」が活動を始めたばかり。人気の学生劇団として、東大の「遊眠社」・日大の「魔天楼」といわれた事もありました。いかんせん、東大VS日大の頭脳の差はその後が雄弁に物語っていますが…。

それはさておき、人気とともに芝居の方も次第に高度なものとなってゆきます。その次なる公演とは?

昭和54年(’79年)7月か8月
●「湘南綺譚」(しょうなんきだん)
作・演出:ちあき由宇
場所:池袋シアター・グリーンで、多分5~6日間
出演:赤星、郷田、矢尾、杉政、岸田、橋本、他オールスターキャスト
 前回の「ブルー・スカイ」と今回にかけ、平光琢也君の弟、哲也君が役者として出ています。

内容:前年あたりからその傾向はあったものの、ここへ来て一気にシュールな幻想劇に。舞台は様々な時代が渾然一体となった亜空間的な湘南海岸。曾我兄弟や伝説のサーファーたちが跳梁跋扈するこの空間に、死んだ母の魂に導かれるように、クニオとそのドッペルゲンガー、オニクがやってくる。ありえない瞼の母との再会。そして、母の記憶の中の湘南海岸にやがて伝説の大波が押し寄せる…。

と、こう書いても何が何だかわからないでしょうが、ルーツたる湘南海岸に根ざし、ちあき独自のダーク・ファンタジー・ワールドを展開した記念碑的作品だと自負しております。後にサザンが歌った「愛の言霊」を聴いた時、まさにこんなイメージ!あの時この歌を出ていたらなぁ、と思ったものでした。
 この頃になると、1公演およそ6日間10ステージで観客動員数は2000人に届く勢い。当時の若手小劇団がマスコミに取り上げられる動員数のベースが3000人といわれてましたから、芝居で飯が食えるのもそう遠くはないと、おろかにも錯覚していました。そんな若気の錯覚パワーを結集して「魔天楼」初の全国公演ツアーとなったのが!? (といっても、4カ所ほどですが)

昭和54年(’79)12月または昭和55年(’80)1月
●「魔天楼のスーパーマン」
作・演出:平光琢也
場所:池袋シアター・グリーン
出演:高野、赤星、郷田、岸田、橋本、他オールスターキャスト

  この時、後に平光の妻となる千種かおるさんが客演。

内容:舞台は現代の日本。地上30センチの高さしか飛べないダメなスーパーマン一家の物語。祖父、父、長男と三代にわたってたいした活躍もしてないため、すっかり自信喪失して市井の片隅でひっそり暮らすこの一家が、亡き母の霊に叱咤激励されて、自信を取り戻すというストーリー。テーマは“自分の中にあるエネルギーを信じれば、空だって飛べる”というもの。この内宇宙のエネルギーというテーマ性は、後の平光・作の芝居に引き継がれている。

この公演を僕は、魔天楼時代の平光君の最高傑作と思っているが、何よりも評価すべきなのは、平光の演出力。劇団員の能力を適材適所に生かした演出で非常に完成度の高い作品となった。
また、この頃になると、スタッフ陣の大部分が卒業して就職したため、照明と美術セットは年上のプロにお願いしていた。(音響は、全魔天楼公演僕が担当)

この事が、後にわざわいを招くこととなる。ともあれ、公演は大成功をおさめ各地の呼び屋さんからのオファーもあって、この年昭和55年(’80)春から秋にかけて、「スーパーマン」をひっさげての全国ツアーとなる。

以下、順序は多少前後しているかもしれないがざっと挙げると。

●昭和55年4月か5月
場所:小田原市民会館・大ホール

これは、小田原で呼び屋をしている後輩のオファーで実現したもの。確か1日のみの公演だったと思う。

●昭和55年9月
場所:京都・青年芸術会館(名前は不確か。同志社大学の近く)
   大阪・阪急ファイブ「オレンジ・ルーム」

両方とも地元の呼び屋さんのオファーによるもの。京都では1日2ステージ、大阪では2日3ステージの公演だったと思う。

●昭和55年10月
場所:法政大学・学生会館ホール

確か学園祭のイベントとして呼ばれたんだと思います。2日で4ステージくらいやったのかな。

この後、平光君は体調を崩してしばらく劇団活動から退きます。また、これを機に長年のベース基地だった池袋シアター・グリーンを後にします。劇団自体は登り調子であり、前出のプロの照明屋さん(現在も業界にいると思うので名前は秘す)の斡旋もあって、当時の小劇場の牙城「渋谷ジャンジャン」への進出を果たします。

昭和55年12月(多分)
●「ナルニア国物語~ぜんまい仕掛けのフェアリーテール~」
作・演出:ちあき由宇
場所:渋谷ジャンジャンで4日間ぐらいの5~6ステージ
出演:高野、赤星、郷田、矢尾、杉政、橋本、岸田、他オールキャスト。

内容:舞台は場末の潰れかかった映画館。夜な夜な映画の登場人物に魅入られ 同一化してしまったおかしな映画マニアたちが集まってくる。そこに、死んだ夫を捜し求めるさらにトチ狂った女が迷い込んできて、映画マニアたちの幻想が破られる。“果たして自分は何者なのか!?”各登場人物必死のアイデンティティーさがしの末、ラストにはとんでもないドンデン返しが待ち受けていた。

僕の作・演出したものの中では、最も完成度の高い作品。事実、ジャンジャンの1回の動員数の記録を破って、楽日には1回で360人を収容。(定員180人程だから倍)大盛況を博したのだが…。

渋谷ジャンジャンでおこなわれる全イベントはジャンジャンのプロデュースによるもの。
ジャンジャンと魔天楼の仲立ちをした前出のプロの照明屋さんが、この公演の収益金をすべて持ち逃げ。長年、タダで借りていた田端の稽古場からも追い立てをくらい、劇団活動は休止を余儀なくされたのでした。
この窮状を救ったのが、この時すでに音楽事務所に就職していた制作スタッフ、北原葉子だったのです。彼女は、音楽事務所社長の支援を得て、長年の夢だった小劇場「スペースDEN」を新宿・ゴールデン街の奥にオープン。定員100人ほどのごく小さなスペースでしたが、そのオープニング公演を平光君と「魔天楼」に依頼したのでした。

この平光君と「魔天楼」という所がミソ。これが、後に「魔天楼」の解散を招く結果になろうとは、その時誰一人として知るよしもなかったのです…。

ま、ぶっちゃけた話、音楽事務所の経営戦略上、オープニング・プロデュース公演の演出にのみ、平光君をフィーチャーした訳です。その後、オープニング公演の第二弾として劇団「魔天楼」のロングラン公演が行われましたが、まずは、第一弾から。

昭和56年(’81)9月1日~9月30日
●「薔薇タバコの日々」
作:津川 泉 (当時、FMなどでドラマを書いていたプロの放送作家)
演出:平光琢也
場所:新宿「スペースDEN」
出演:よしえ(苗字忘れた。売りだそうとしていた女優兼タレントの卵)
高野が客演した他、演劇集団「円」の平光の友人たちが脇を固めた。

内容:よく覚えていませんが、ちょっと幻想的なラブ・ストーリーだったような…?プロデュース公演の制約から意にそぐわないダンスや唄を織り込みながら、平光君の悪戦苦闘ぶりがうかがえる労作に仕上がったと、僕は評価しています。

さて、これに続いて行われたのが「魔天楼」初のロングラン公演。プロデュース公演とはいえ、劇場使用料がタダでもチケットはすべて手売りでした。

昭和56年(’81)10月1日~10月31日
●「夜は千の眼を持つ~メタモルフォセス・ホテル~」
作・演出:ちあき由宇
場所:新宿「スペースDEN」
出演:赤星、郷田、矢尾、杉政、岸田、橋本、他オールスターキャスト

内容:舞台はいつの時代どこの国とも知れぬ超高層ホテル最上階の回転するレストラン・ラウンジ。ここに迷い込んできた老婆の強力な思念にウェイターや従業員、ホテルの宿泊客達が巻き込まれ、ラウンジの回転とともに老婆の“記憶の世界”が展開する。「千夜一夜物語」から続く、僕のダーク・ファンタジー・ワールドの集大成的作品。

公演としては一ヶ月のロングランという事もあって、2000人を突破する大成功。だが、この公演を最後に劇団「魔天楼」は分裂・解散する事になったのです。

以前から、収益金持ち逃げ事件や稽古場撤去事件の緊急事態にまったくノータッチだった事に加えて、劇団とはまったく別にプロデュース公演に参加したことから、劇団員の座長・平光君にたいする憤懣がここにきて爆発。その劇団員に突き上げられる形で「夜は千の眼を持つ」公演中、僕と平光と劇団員が何度か話し合った末、劇団「魔天楼」は解散、以後、平光および僕がそれぞれ別の劇団を結成。各劇団員はそれぞれの判断でどちらかに所属する事になったのです。
こうして、昭和50年に始まる劇団「魔天楼」は、昭和56年10月31日の公演を持って7年にわたる栄光の歴史の幕を閉じたのでした。合掌。

以上が、「魔天楼」サーガ・エピソード③の顛末です。それからの1年間は、いわば最終章・エピローグです。ざっと、片付けましょう。

解散直後、その年(昭和56年)のうちに、平光君は劇団「あかつき騎士団」を結成。
この「あかつき騎士団」には、高野、赤星、北村、矢尾などが所属。 一方、僕は劇団「銀河ステーション」を結成。「銀河ステーション」には、郷田、岸田、橋本、杉政などが所属します。

明けて昭和57年(’82)1月から7月ぐらいまでの内に、「あかつき騎士団」は、新宿「スペースDEN」で平光作・演出のオリジナル作品を2本ぐらい(両方ともタイトルは不明)、「銀河ステーション」は古巣の池袋「シアター・グリーン」で、ちあき由宇作・演出のオリジナル作品を2本、石川雅史作の作品を1本(タイトルはちあき作「メランコリア」「人形愛序説」、石川作「コルクの部屋」)を上演したものの、戦力が半減した状態では観客動員も伸びるはずはありません。
大学卒業からはや3年、お金の必要も出てきて、「あかつき騎士団」「銀河ステーション」は共に、活動休止、事実上の解散となったのでした。

今にして思えば、劇団「魔天楼」は平光や僕にとって、まさに青春そのものでした。がしかし、「魔天楼」時代の成果はコントのテーマやモチーフとして「怪物ランド」と「ウソップランド」に受け継がれてゆきます。

「魔天楼」時代の終焉は、同時に新たなサーガの始まり。ですが、それはまた、次の話としましょう。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です