石塚千明が語る 魔天楼サーガ その3

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第三弾の前に、現時点で平光君本人から指摘された補足・訂正事項。

劇団「色鉛筆」が小田原市民会館で行ったミュージカル公演のタイトルは「グッド楽苦(ラック)」。この時何と、小田高演劇部の後輩として郷田ほづみ君も出演していたとの事です。
(知らなかったなぁ)
あと、つかこうへい時代の劇団「魔天楼」公演で、「生涯」をのぞいて「郵便屋さん、ちょっと」「熱海殺人事件」においては平光君も出演していたそうです。(僕の記憶もあてにならないなぁ、どうも ごめんなさい)

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さて、第三弾は「魔天楼」時代が終わった後からなので、ここからは「怪物ランド・サーガ」となります。
私の記憶が確かならば…(全然確かじゃないのは明らかですが)新たなサーガの始まりは、時あたかも昭和57年(’82年)夏。

舞台は、池袋や新宿の小劇場から、六本木へと移ります。この頃、六本木や新宿の盛り場を中心に、いわゆる「ショー・パブ」が続々と登場し始めます。
その草分け的存在ともいえるのが六本木の「バナナ・パワー」。劇団活動休止を余儀なくされた平光君の動きは実に迅速でした。この「バナナ・パワー」のオープンに合わせて、早くもそのステージで行われるコントの仕事を見つけて来て、当時バイト等で生計を立てていた劇団仲間に声を掛けたのです。こうして「怪物ランド」の元となるコント・グループが結成されたのでした。

オープン当時の「バナナ・パワー」のシステムは、約二時間の入れ替え制。客は、多分二千円ぐらいのフリー・ドリンク・チケットを買って中に入ると、大きなテーブルにベンチ型のシート、奥に鏡張りの小さなステージ。
水割りなどを飲んでると(入った時点で客はすべて酔っぱらい)、やがてステージに3~5人のコント・グループが登場して15分ぐらいのコントを披露。コントの内容は演劇的でシュールだし、客は酔っぱらっているしで、ほとんどウケない。
コント終わってまたしばらく飲んでると、大音量で歪んだダンス・ミュージックとミラー・ボールの回転と共に、外人の男性ストリッパーが登場。自分で考えたいい加減な振り付けで踊って、ビキニ・パンツ一丁になったら、客席を廻って女の客をキャーキャーいわせ、パンツに千円札など挟んでもらってストリップ終了。すると、従業員が直径15センチぐらいのパイ生地の上にクリームを乗せただけのパイを一枚確か500円ぐらいで客に売って廻る。ステージには、水中メガネやゴーグルをかけたコント・メンバーと男性ストリッパーがパイ投げの的(まと)としてラインナップ。客は、彼らの顔めがけてパイを投げるが、酔っぱらっているし的の方もよけるしで、あんまり当たらない。これで、一回分のショー・タイム終了。(もしかしたら、コントは2ネタやってたかも)このショー・タイムが夕方から深夜まで、3~4回にわたって繰り返されます。

まさに当時の世相を伺わせる、阿鼻叫喚、酒池肉林の宴が夜ごと展開したのでした。

 この「バナナ・パワー」に出演しはじめた当時は、まだ「怪物ランド」と名乗っていないはずです。お店の看板には、コント・グループの名前が載っていたので、多分、当時は「怪物ファミリー」といっていたのかもしれません。
そのメンバーも、平光君を中心に、赤星君、郷田君、それに、劇団仲間から高野寛、矢尾一樹、演劇集団「円」の後輩である石田登星(後の「ウソップ・ランド」初期にも出演)なども時折加わっていたような気がします。
ともあれ、当初は劇団「魔天楼」時代の芝居のギャグ部分をふくらませていくつかのコントに仕立てていたのですが、客は酔っぱらいなので小難しいギャグは通用せず受けるのはやっぱり下ネタ、酔っぱらいの割には意外とリピーターも多かったため、次々と新しいコントを作っていかなければならない状況に追い込まれていったのでした。劇団時代と違って、今や生活がかかっているので止めるわけにはいきません。

こんな状況の中、平光君がベースの台本を書き、赤星君、郷田君と稽古しながらまとめていった新作コントの数々が、「怪物ランド」というコント・グループのキャラクター・イメージを作り、後の「お笑いスター誕生」でグランプリをもたらし、さらに「ウソップ・ランド」のベースとなっていったのでした。

この時作った新作コントを、後の「お笑いスター誕生」出演時の資料(「怪物ランドの生涯」)を元にざっと挙げてみると…
「怪物くんコントPART1」、「英語劇」、「ネズミの軍隊」、「E.T(板垣退助)」、「怪物くんコントPART2」、「新撰組」、「ゲゲゲの鬼太郎」、「迷信家族」、「ロボットストーリー」、「仮名手本忍者村」~等々。

厳密にいえば、「お笑いスター誕生」出演時のコントはTV番組という制約上、「バナナ・パワー」時代に作ったコントをベースにほとんどが作り直した新作。(後に形を変えて「ウソップ・ランド」でやる「精子くんコント」はバナナ・パワー時代の傑作ですが、TVの制約上、「お笑いスタ誕」ではやらなかったようです。)とはいえ、個々のコントの台詞まわしや筋立ては、「バナナ・パワー」時のコントを一度解体して、組み立て直した、いわば、アップグレード・ヴァージョンと言えます。
さらにいえば、部分々々の会話やシチュエーションは、劇団「魔天楼」時代の芝居から手を変え品を変えて、引き継いできたものも随所にありました。平光君は昔からこのアレンジというかヴァージョン・アップが実に巧みで驚かされます。
何といっても「新撰組」ネタなんて、劇団時代に3回公演、「バナナ・パワー」から「お笑いスター誕生」をへて「ウソップ・ランド」まで引っ張っているんですから、まさに不滅のネタといわなければなりません。

ともあれ「バナナ・パワー」時代に酔っぱらいの客から少しでも笑いを取ろうと作ったコントには、他のコント・グループにはない「怪物ランド」独自の特長が明確に表れています。

それは、「家族」、「軍隊」といった明確なシチュエーション設定、あるいは「怪物くん」、「アトム」、「鬼太郎」、「忍者」といった我々の世代なら誰でも知ってるキャラクター設定、さらに「ネズミ」、「精子くん」といった擬人化したキャラクター設定など、一言でいえばまさに「演劇的」。事実、「お笑いスタ誕」の時はもちろん、「バナナ・パワー」のステージの時も可能なかぎりそれぞれのキャラクターの「衣装」をつけ、髭やかつらなどで「メーキャップ」をし、時には高野、矢尾、石田などが代役を務める「ダブル・キャスト」でステージに臨んでいました。

つまり、彼らはあくまで「役者」としてキャラクターを演じていたのであり、「バナナ・パワー」でのコントは彼らにとって「舞台公演」なのであり、したがって「怪物ランド」というのはコント・グループではなく、「劇団」だったのです。

こんな風に書くと、改めて言われるまでもないと思われるでしょうが、当時マスコミで活躍していたコント・グループは「~トリオ」といった寄席の演芸グループか、「ドンキー・カルテット」や「ドリフターズ」など音楽バンドをベースにしたグループばかりでした。

「怪物ランド」以降、「ダチョウ倶楽部」や「ウッちゃん・ナンちゃん」といった演劇畑出身のコント・グループが続々と登場したのです。また、同じ時期に登場した「コント赤信号」は、渋谷・道玄坂の「道頓堀劇場」というストリップ劇場で幕間コントをやっていたので状況は似ていますが、彼らは明治大学の落語研究会出身なので演劇畑とは少しニュアンスが違います。この演劇畑出身、いいかえれば「役者根性」が良くも悪くも「怪物ランド」の独自性を決定づけていたのであり、コントはもとより彼らの考え方や行動の基本となっていたのです。

しかし、この「バナナ・パワー」時代はそんな悠長な自己分析をやっている暇もなく、日々のステージをこなしていかなければなりません。

僕が見ていて一番つらかったのは、やっぱり最後のパイ投げ。何度もいうようですが、客は酔っぱらい、わざと的(まと)の目の前までいって顔になすりつける奴はいるは、パイの換わりに灰皿を投げる奴はいるはで、仕事の一部とはいえ「役者」にはつらかったに違いありません。赤星君なんか時々キレて客とケンカしてましたしね。楽しかったことといえば、人間関係の環が広がった事。特に外人・男性ストリッパーはほとんどが素人で、中には教え子の男子生徒に手を出してクビになったサンフランシスコの元高校教師とか、どっから連れてくるんだよっていうしょーもない不良外人もいたりしました。また、当時続々と登場したショー・パブ同士の交流もあったようで、怪物ファミリー(?)も時々、新宿の「ギャルソン・パブ」とか「黒鳥の湖」とかにゲスト出演していたと思います。

そして、何と言ってもこの「バナナ・パワー」時代の最大の成果がマスコミの取材。

ショー・パブが風俗産業の最先端をいっていた時代だけに、雑誌やテレビの取材がかなりあったようです。テレビの取材といっても、ほとんどが「トゥナイト」などのナイト・ショーで、お目当ては男性ストリップとパイ投げでしたから、彼らのコントが大きくクローズ・アップされた訳ではありません。が、客の中には六本木という土地柄マスコミ関係者も多く、そんな中のある業界人が彼らのコントに眼を付けたのでした。

当時はMANZAIブームの後をうけ、テレビ業界が新しいお笑いタレントの発掘に躍起となっていた時代。日本テレビでは「お笑いスター誕生」が、テレビ朝日では「テレビ演芸」(正式タイトル忘れた)が盛んにお笑い新人を捜していました。そう、彼らのコントに眼を付けた人こそ、その「お笑いスタ誕」のプロデューサー(あるいはスタッフ)だったのです。その人は言ったそうです。

「君らだったら、うちの番組でかならず5週は勝ち残れる!」

この言葉が悪魔のささやきに聞こえたか、天使の呼び声に聞こえたかは今となっては知るよしもありませんが、彼らにとって大きなチャンスであることには間違いありません。

演劇を取るかコントを取るか、役者を取るかタレントを取るかといった大問題は棚に上げておいて、「取りあえず出てみんべぇよ」(小田原弁)となったのです、多分。

 時あたかも昭和57年(’82)年末、もしくは昭和58年(’83)初頭の大決断でありました。

以下、TV出演時の字数の制約からグループ名を「怪物ランド」に決定。これは、「バナナ・パワー」の怪物くんコントが割と受けてたのですんなり決まったようです。メンバーもそれまでの流れから平光、赤星、郷田の三名に固定。これは平光君の頭の中では、あくまで「お笑いスタ誕」出演時に限っての一時的な「劇団」の形だと考えていたようです。

なにはともあれここに、本当の意味での「怪物ランド」が誕生したのでした。

「怪物ランド」の初舞台、否、初オン・エアーは昭和58年(’83)2月26日、「お笑いスタ誕」の第三期グランプリ・シリーズでありました。

以下、「お笑いスタ誕」10週ストレート勝ち抜きの経緯や各回のコント内容は、漂泊旦那さんの漂流世界内「お笑いスター誕生!!の世界を漂う」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1901/star.html
に、やった本人や関係者が忘れてしまったディテールまで含めて大変詳細に掲載されているので、そちらをご覧下さい。

(信じられないほど詳しいので、平光君も僕も驚いています。)

 僕の記憶している舞台裏を少し付け足すなら…。

確か、収録場所は代々木の「山野愛子ホール」だったような気がします。多分、一回の公開収録で2回放送分を撮っていたと思います。司会は、今は亡き山田康夫さん(ルパン三世やクリント・イーストウッドの声優で有名)と、ベテラン歌手の中尾ミエさん。審査員は京唄子さん鳳啓介さん、赤塚不二夫さん、他、ゲスト審査員。(ちがったかな?)

ステージに出る数日前に、日テレのリハーサル室でいわゆる「ネタ見せ会」が行われてました。
この「ネタ見せ会」は、番組の演出をしていた赤尾さん(制作会社「日企」の偉い人)に、次の収録でやるネタを見てもらい、アドバイスをうけるというもの。その時点で勝ち残っている出場者はもちろん、これから出場しようという者も含めて全員が立ち会うのでかなり緊張した空気が漂ってました。もちろん、本番時の勝ち負けは審査員の判断が全て。デキ・レースっぽい所は一切ありませんでした。

ちなみに、僕の記憶している同時期の出場者といえば…。

まず「象さんのポット」、これは平光君にいわせれば「立ち話コント」の二人組。
今で言えば「よゐこ」のようなものすごく低~いテンションで会話してそれがとても新鮮でしたが、時代が早すぎたのか、グランプリには至らなかったと思います。
次に「ぶるーたす」、これは今で言えば「なかやまきんにくん」に当たる一人芸。マッチョ・ポーズをとりながらギャグを言うスタイルで、確か日芸演劇学科の後輩だったと思います。
 そして「小柳トム」、今のブラザー・トムさんですが、当時はピンでやってました。おまわりさんコントやピアノの弾き語りコントが有名でした。
さらに「シティー・ボーイズ」は、怪物ランド以前に番組に出場してたと思いますが、何週かで敗退。怪物以後の挑戦でグランプリを獲得したと思います。劇団「暫」時代からこの「お笑いスタ誕」に至るまで、怪物ランドの先輩格であり良きライバルでもありました。

こうして、「怪物ランド」はあれよあれよという間に勝つ進み、ついに10週目、グランプリを賭けたステージをむかえたのです。もっとも、本人たちに言わせるとこの10週は、バイトもできず次にやるネタの稽古に明け暮れていた大変な時期だったようです。

10週目のステージは、昔の劇団仲間たちとタレ幕などを用意して見に行ったので、僕もよく覚えています。この時の「仮名手本忍者村」は、まったく新しく作ったネタ。歌舞伎で使う波幕を使ったものすごくテンポの早いコントで、一気にオチの大魔神まで畳みかけます。コントが終わった瞬間、会場から沸き上がった盛大な拍手喝采は30秒ぐらい鳴り止みませんでした。どんなにシビアな審査員でも、これは合格にせざるを得ない熱気に会場全体が包まれていたのです。

もちろん結果は、見事10週ストレートで勝ち抜け、グランプリ獲得!正直いって僕もちょっと泣きました。

時あたかも、昭和58年(’83)、多分5月の快挙でありました、嗚呼…。

蛇足ではありますがこの時期の僕は、彼らとは別の仕事で糊口をしのいでいました。

友達のよしみで、「バナナ・パワー」や「お笑いスタ誕」の収録、「ネタ見せ会」にも頻繁に行ってアドバイス等していたものの、それは僕にとって1円のお金にもなりません。

劇団時代、ホームグラウンドとしていた「池袋シアター・グリーン」で、当時はもう経営陣(といっても2~3人)の一人となっていた高沢良則君(後に怪物ランド公演のプロデューサーを務める)のオファーで、シアター・グリーンのプロデュースと劇場管理の仕事をしていたのです。昔から「シアター・グリーン」では、7月~8月と1月~2月にかけて劇場プロデュースの「サマー・フェスティバル」と「ウィンター・フェスティバル」を開催していました。劇場プロデュースといっても、8~10劇団を集め、その連続公演通しチケット・ポスター・チラシを劇場側が負担するというもので、劇場使用料などは通常とほぼ同じ。ですが、伸び盛りの劇団にとっては通しチケットで他の劇団の客を奪い取れるというメリットがあります。劇団「魔天楼」時代の公演の多くは、このフェスティバルに参加して観客動員を伸ばしてきたのでした。が、劇場側に立ってみると、この8~10劇団を集めるのが大変な仕事。あの手この手で若手劇団に呼びかけ、劇団ごとの諸問題、例えば、照明や音響の裏方がいない、等の問題をサポートしてあげなければなりません。幸い、当時の人脈のおかげもあって、かなり有望な劇団を集めることが出来ました。

ちなみに、この時期、「シアター・グリーン」で公演を打っていた劇団には…。

(必ずしもフェスティバル参加ではなく、単独公演の場合もありましたが)
渡辺えり子率いる「劇団300(さんじゅうまる)」、三宅裕司率いる「スーパー・エキセントリック・シアター」、鴻上尚史率いる「第三舞台」、全員女性だけの劇団「青い鳥」など、そうそうたる劇団が名前を連ねていました。
今にして思えば、もう少し頑張って劇団活動を続けていれば我々「魔天楼」も何とかなったかもしれませんが、最早、あとの祭り。

そんな中で、今や誰も覚えていないが僕にとっては忘れられない劇団があります。それが「ヒーローキャリー」。女子高を卒業したばかりの同級生の女の子9人組です。

 最初、彼女たちは揃って僕の所に相談にきました。高校の文化祭で上演したオリジナル・ミュージカルが好評なので、何とか外の劇場で公演できないものか、と。客は手売りで集められるが舞台制作に関してはまったくわからない、と。素人のミュージカルではあるが、仲良し9人組の青春の思い出にしたい、と。全員がカワイイという訳ではありませんが、何といっても平均年齢18歳のピチピチ・ギャル(表現古いなぁ)の頼み、若干のスケベ心も手伝ってそんじゃぁ、僕が一肌脱ぎましょうという事になったのです。実際には、照明を吊り、音響を仕込み、舞台セットを即席で作り、オペレーターもタダでやって、二肌も三肌も脱ぐ事になったのですが、ともかく無事、本番をむかえることができました。この本番の舞台に、以前からミュージカル大好きだった前出の北原葉子を呼んで見せた所、大変気に入って、翌日には音楽事務所の社長さんも連れて見に来ました。そして、公演最終日にはもうプロ・デビューの話にまで進んでいました。

彼女たちもまだ高校を卒業したばかり、取りあえず1年間はやってみようという事になったようです。すぐさま、ミュージカルの中で作ったオリジナル曲を中心に、アルバム(LP)のレコーディング。そのLPと同時にシングル・カットされた「恋のティーン・エイジ・ブギ」という曲でデビューすることとなったのです。このデビューにあたって、発掘者ともいうべき僕に、北原と音楽事務所の社長さんからオファーがありました。つまり、「ヒーローキャリー」のプロモーションを手伝ってくれ、と。

僕の仕事は、いわゆる有線局まわりにレコード会社の人と組んで付き添ったり、ミュージカル公演の全国ツァー(結構全国各地を廻りました)に演出兼舞台監督兼音響として随行したりと、色々。

その中でも、後に一番役立ったのが放送用の台本書きでした。彼女たちがテレビやラジオに出演する時必ずといっていい程演出側から出てくるのが、ミュージカル・グループなんだからちょっとミュージカル風の一場面を演じてから歌に入りたい、というもの。そんな依頼がある度に、僕が彼女たちのオリジナル・ミュージカルを大幅にアレンジしてその番組に合ったショート・ミュージカルに仕立てていました。記憶しているだけでも、ラジオ・テレビ合わせて5~6本の台本は書いているので、部分的ではありますが、これが実質的な僕の放送作家としてのデビューということになります。

 結局、デビュー時から3~4ヶ月間は結構色々な仕事に追われていましたが、それを過ぎると急に暇になってしまったのでその時点で僕はこの仕事から身を引きます。また、彼女たちもアルバム1枚、シングル3~4枚をリリースしたもののこれといったビッグ・ヒットには至らず、結局1年間で普通の女の子に戻ったようです。

僕にとっては結果的に、この仕事が後に本格デビューする事になるTV構成作家のまたとない予行演習となった訳ですが、この時はまだ知るよしもなかったのでした。

そしてこの事は、同じ時期の「怪物ランド」にもあてはまります。

「お笑いスタ誕」グランプリ獲得が何をもたらす事になるか、彼らはまだ知るよしもなかったのです。
「怪物ランド」を祝福する満場の拍手喝采は、新たな歴史のイントロにすぎなかった!そう、メジャー・デビューに向けた新たな怪物ランド・サーガが、ここに幕を開けようとしていたのでした。が、それはまた、次の話としましょう。

                         (怪物ランド・サーガその③・完、その④に続く)

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